『仮面の告白』や『金閣寺』などを執筆した三島由紀夫は、戦後を代表する小説家と言われています。
なんとノーベル文学賞の候補になるほど、世界的にも評価される素晴らしい人物です。
三島由紀夫の子供は2人いらっしゃいますが、2人とも表現家として現在でも活躍されています。
今回は三島由紀夫の子供の活躍について、お伝えしたいと思います。
目次
長女・平岡紀子
- 氏名:平岡 紀子(ひらおか のりこ)
- 生年月日:1959年6月2日
- 出身校:幼稚園~大学まで学習院
- 結婚後の名前:冨田紀子
- 配偶者:冨田浩司
学習院から大学まで学習院だった平岡紀子さん、非常に優秀だなと感じられますね。
幼稚園~初等科では徳仁天皇陛下と同級生だったそうです!
演出家として活躍
平岡紀子さんは舞台演出家として活動されています。
三島由紀夫が亡くなって20年後の1990年1月に三島由紀夫の戯曲『葵上』と『弱法師』の演出を手がけました。
三島由紀夫の著作権保護に尽力
平岡紀子さんは福島次郎の小説『剣と寒紅』に対し、弟と一緒に福島次郎と出版社の文藝春秋を著作権侵害として訴えました。
三島由紀夫は死後28年が経過し『剣と寒紅』が出版され、この著書の中では三島由紀夫の書簡が無断使用されていたことが発覚しました。
そのため、弟・威一郎と共に、著作権侵害と出版の差し止めを求め、東京地方裁判所で裁判を起こしました。
2年後勝訴し、すでに10万部発行され、9万部はすごい勢いで売れていた『剣と寒紅』はその時点で廃刊し、謝罪広告と罰金の判決になりました。
父と長女の心温まるエピソード
三島由紀夫は長女への愛情を「不安」という気持ちで語りました。
平岡紀子さんが生まれた時はこう語っています。
「怪物的であつて、あんまり可愛らしくないので、これなら溺愛しなくてもよさそうだ」
確かに、父親って娘を溺愛しすぎてしまうイメージありますもんね。
しかし、時間が経つにつれて不安に感じました。
「これは並々ならぬ可愛いもの」「人から見て可愛くも何ともないものが可愛くみえるといふことは、すでに錯覚である。困つたことになったものだと私は思つた」
やっぱり、父性が湧いてくると可愛くて仕方なくなるんですよね。
ただ、愛情を「不安」という気持ちとして話す感性がとても個性的だと感じます。
さすが、小説家ですね。
旦那は冨田浩司
最初にもお伝えしましたが、平岡紀子さんの夫は冨田浩司さんです。
外交官として活躍されており、2022年現在は駐米特命全権大使を任命されています。
2019年、駐韓国特命全権大使就任時には、「極右作家の娘婿が日本大使に」と韓国のマスコミに取り上げられたエピソードもあります。
長男・平岡威一郎
- 平岡 威一郎(ひらおか いいちろう)
- 生年月日:1962年5月2日
- 出身校:お茶の水女子大学附属小学校/開成中学校/慶應義塾
- 職業:元実業家
平岡威一郎さんは、中学卒業後に渡米し、帰国後は映画製作の手伝いをしていました。
15歳にして渡米する優秀っぷり、素晴らしいですね。
三島由紀夫の作品に関わる仕事に従事
三島威一郎と名乗り、三島由紀夫の小説の映画に関わる監修に携わりました。
成人後、映画の助監督を務めていた威一郎さん。
その後、1999年には『三島由紀夫映画論集成』の編集・監修、2005年には『春の雪』の企画・監修に携わりました。
『春の雪』という映画は大正時代、自由に恋愛が認められなかった時代の話で、妻夫木聡さんや、竹内裕子さんが出演され、一時期話題になりました。
父と長男の興味深いエピソード
娘を溺愛していた三島由紀夫ですが、「威一郎が可愛くて可愛くて仕方ない」と息子も溺愛していました。
三島由紀夫は「どんなことをしても、小説家だけはなつてもらひたくない」「こんなサーカスの綱渡りみたいな危険な職業を選ばせたくない」と誕生したときから語り、男の子だったということから将来をとても心配していました。
三島由紀夫は有名人なので、人格形成に害を及ぼすことを危惧し、雑誌などで写真等と取らせない方針も徹底していました。
また、6歳のころには威一郎さんの友達が家に遊びに来た時、一緒に遊んだというエピソードもありました。
三島由紀夫はボディビルで鍛えた胸を叩き、怪獣のような奇声を発して子供達を脅かして遊んでいたんだとか。
本気で平岡家には怪獣が住んでいるんだ!と勘違いする子供もいたりして、三島由紀夫が子供達の人気者であったのこと感じられますね。
世間の声
まとめ
今回は三島由紀夫の子供、平岡紀子と平岡威一郎についてお話しました。
- 平岡紀子は演出家として活躍し、『葵上』と『弱法師』の演出を手掛けた
- 平岡紀子と平岡威一郎兄弟2人で、父親の著作権保護に全力を尽くした
- 三島由紀夫は平岡紀子を溺愛し、「不安」という感情で語った
- 平岡紀子の旦那は現在も外交官で活躍されている冨田浩司である
- 平岡威一郎は父親の小説の映画の監修に携わった
- 三島由紀夫は平岡威一郎も溺愛し、子供達の人気者でもあった
三島由紀夫は1970年に自決したので、当時子供は11歳と8歳でした。
大人になってから著作権保護に全力を尽くしたり、父親の作品を演出や映画という形で大きくしたりと、父親の存在が大きかったことが見受けられますね。
これからも三島由紀夫の作品を守り、私たちも三島由紀夫の作品にもっと触れていきたいと思います。