『男はつらいよ』の主人公でおなじみ「車 寅次郎」役の、渥美清。
「寅さん」で親しまれていた渥美清は、転移性肺がんで亡くなりました。
今回は、名優・渥美清の死因を掘り下げていきます。
目次
死因:転移性肺がん
渥美清は、1996年8月4日午後5時10分に転移性肺がんのため68歳で亡くなりました。
肺は全身から血液が送られてくるため、他臓器由来の悪性腫瘍の血行性転移が起きやすい臓器です。
1989年以前から体調不良
1991年に肝臓がんが見つかる前から、体調不良だったと言われています。
実は1971年から1974年辺りには既に病気が見つかっていたとも言われています。
渥美清の長男・田所健太郎さんがインタビューを受けた際父親の病気についてこう語っていました。
「父ががんという病気であることを知ったのは僕が幼稚園の頃だった」
「いつも『オレはもう死ぬんだからお母さんの言うことをよく聞いてしっかりやれ』という叱られ方をした」
「九一年の宣告は(もともと持っていた原発の)肝臓がんが肺に転移したときの話だと思います」
このことから、1991年の肝臓がんの前から病気を患っていたことが分かります。
1991年に肝臓がん発見
渥美清が63歳の時に、肝臓がんが発見されました。
この時から映画スタッフ等に挨拶するのも辛い状態の中、映画撮影を行っていました。
そのため、監督に「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いからスタッフや見物の方へ挨拶を省略させていただきたい」と述べていたそうです。
病気による体調不良のため、自身の出演シーンを削り甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られるようになったのもこの頃からです。
それでも映画の撮影を続けたのは、渥美清の俳優魂とも言えます。
1994年に転移性肺がん発見
3年後の1994年に肝臓がんから肺に転移した転移性肺がんが発見。
この時には、2日撮影したら2日休養を置くスケジュールで撮影を続けていましたが、午後には声の調子が落ちていたようです。
転移性肺はんが見つかった際、主治医から『男はつらいよ』の第47作目への出演は難しいと言われていました。
なんとか47作目に出演した後、48作目まで出演することができたのは本当に奇跡とも言えますね。
1996年に亡くなった
がんが肺に転移してから2年後の1996年8月4日に68歳で転移性肺がんにより死去。
1996年の6月、代官山レストランでの食事の際に第49作目の制作の件で高知ロケを承諾し撮影を控えていた時でした。
渥美清の訃報は、亡くなってから3日後の1996年8月7日に松竹から公表されました。
第48作目の『男はつらいよ 寅次郎紅の花』が実質の遺作になりました。
手術ミスによる死亡説はガセネタ
渥美清の死因は最後に受けた手術が原因ではないかと言われることがありました。
亡くなる前、家族に「呼吸が苦しい」と訴え手術を受け、その4日後に死去しました。
そのため、死因が手術ミスだったという噂が流れたかもしれません。
しかし、既に広範囲に癌が転移しており手遅れの状態だったことが手術を受けた時点で判明しています。
長年闘病生活を送っていたため、体に負担がかかっていたのも要因の一つだったと思われます。
元々、病弱だった
渥美清さんは、幼少の頃から病弱だったと言われています。
実際にどのような状態だったのか、詳しく見ていきましょう。
病気で欠席しがちだった子供時代
小学校時代は欠食児童であり、小児腎臓炎や小児関節炎膀、胱カタル等を様々な病気を患っていました。
そのため、学校を欠席がちで小学校3年次と4年次には長期病欠するほど病弱だったそうです。
欠席中は一日中ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、落語は覚えて学校で披露していました。
披露した落語は大変好評だったようで、この頃から役者の片鱗が見えますね。
2年間療養していた青年時代
1954年に肺結核を患い、埼玉のサナトリウムで2年の療養生活を送りました。
その際、右肺を切除しています。
元々喜劇俳優として道を歩んでいた途中に肺結核を患い右肺を切除したため、今まで行っていたドタバタ喜劇ができなくなりました。
しかし、退院後の1956年の秋に胃腸を患い3か月入院。
再復帰後は酒やタバコ、コーヒーを一切やらなくなり過剰なほどの摂生に努めていたようです。
葬儀とお別れの会
渥美清は、「戒名はつけるな」「最期は家族だけで看取ること」「世間には荼毘に付したあと、知らせること」「騒ぎになったときは、長男の健太郎ひとりで対応すること」という遺言を残していました。
家族以外は知らなかった密葬
葬儀は渥美清の遺言によって、東京都の町屋斎場にて家族だけで「密葬」を行いました。
映画関係者にも話しておらず、火葬後に最初に連絡を受けたのは山田監督も言われています。
また、「自身のやせ細ってしまった体を世間には見せたくない」とも言っていたようで、最後まで寅さんのイメージを崩さないように配慮し続けていたことが分かります。
後に、「『男はつらいよ』シリーズを通して人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えた」という理由で国民栄誉賞が贈られています。
ファン4万人が訪れたお別れの会
1996年8月13日に松竹大船撮影所で「寅さんのお別れ会」が開かれ、ファン4万人が訪れました。
参列者の列は撮影所から1㎞先の大船駅まで作るほどで、朝から晩まで途絶えることがなかったと言われています。
訪れたファンは、見納めとして『男はつらいよ』の「くるまや」のセット等にも列を作り生前の渥美清を偲んでいたことから、寅さんや渥美清さんがどれだけファンに好かれていたか分かりますね。
お別れ会では山田洋次監督が弔辞を読み、監督は「渥美さんを寅さんという、のんきで、陽気な男を演じるという辛い仕事から解放させてあげなければいけない」と考えいたそうです。
それでも寅さんを演じ続けた渥美清さんに感謝を込めて、お別れ会を葬儀場ではなく撮影所で開いたことは監督やスタッフからの渥美清さんへの手向けでもあったのかもしれませんね。
お墓の場所とアクセス
- 埋葬地:源慶寺
- 所在地:東京都新宿区富久町9-23
- 最寄駅:東京メトロ丸の内線「新宿御苑前駅」徒歩約3分
- 最寄りI.C.:首都高速4号新宿線「外苑IC」約7分
俳優・渥美清こと田所康雄さんは現在、源慶寺に眠っています。
駅から徒歩で3分と行きやすい場所にあるので、気になる方は一度訪れてみても良いのではないでしょうか。
世間の声
まとめ
俳優・渥美清の死因を掘り下げてみました。
今回の内容をまとめると以下のようになります。
- 1971年から1974年辺りに既に病気を患っていた
- 1989年から次第に体調が悪化し、映画の撮影に影響を与えていた
- 1991年に肝臓がんが発見され、1994年には肺に転移した転移性肺がんを発症
- 亡くなる前に呼吸ができなくなり手術を受けていたが、既に手遅れの状態だった
- 葬儀は渥美清の遺言通り、家族だけで行われ後にお別れ会が行われた
- 開かれたお別れ会ではファン4万人が駆け付けた
最期まで、自身が演じた「寅さん」のイメージを崩すことなく役者人生を終えた渥美清こと、田所康雄さん。
彼の残した「車 寅次郎」というキャラクターが今でも愛され続ける理由が分かります。
名優・渥美清さんの生き様ともいえる『男はつらいよ』を皆さんも観てみてはいかかでしょうか。