美智子様と言えば、名に恥じぬ優雅なお姿や仕草を思い浮かべるのではないでしょうか。
立ち振る舞いの中には、凛々しさや華やかさがあり多くの人々が魅了され続けています。
そんな美智子様は若い頃からエレガンスだったと言われています。
今回は美智子様の若かりし頃から現在に至るまでの魅力に言及してみました。
目次
プロフィール
- 第125代天皇后
- 皇后:1989年1月7日‐2019年4月30日(在位期間)
- 上皇后:2019年5月1日‐
- 生年月日:1934年10月20日
- 諱:美智子
- 旧名:正田美智子
- 印:白樺
- 氏族:正田家
- 父親:正田英三郎
- 母親:正田富美子
- 配偶者:明仁(第125代天皇・上皇)
- 結婚:1959年4月10日
- 子女:徳仁(浩宮徳仁親王 → 第126代天皇)、秋篠宮文仁親王(礼宮文仁親王 → 皇嗣)、黒田清子(紀宮清子内親王)
- 身位:上皇后
- 役職:日本赤十字社名誉総裁(‐2019年4月30日)、国際児童図書評議会名誉総裁
美智子様は、明治時代以降初めての民間出身の皇后ならびに皇族です。
2019年に明仁様の退位に伴い、上皇后となりました。
若い頃の美人すぎるお姿
美智子様は、若い頃からお姿が美しいと言われています。
実際にどれほど美人だったのか、見ていきましょう。
大企業の会長のお嬢様として誕生
1934年10月20日、日清製粉グループ会長の正田英三郎と正田富美夫妻の長女として誕生しました。
大和郷幼稚園、雙葉小学校附属幼稚園を経て1941年に雙葉学園雙葉小学校に入学。
しかし、疎開のため神奈川県の乃木高等女学校附属小学校、群馬県の館林南国民学校、長野県の軽井沢第一国民学校に転校を繰り返し、軽井沢で終戦を迎えています。
疎開とはいえ、3回も転校していたとは驚きです。
小学校時代の性格は「真面目な女子児童」、「活発で勝ち気だった」、「神経質な性格だった」と評されています。
スポーツも得意で、リレー選手に選ばれるほど運動神経は良かったそうです。
また、ピアノ・絵画・料理、香道も習っていたようで、美智子様の優雅な立ち振る舞いはここから培ってきたのかもしれませんね。
成績トップだった学生時代
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1957年に聖心女子大学文学部外国語外国文学科を首席で卒業。
在学中は、中学・高校の英語教員免許の取得やクラスの福祉員委員長、プレジデント(全学自治会会長)として活動しており、卒業式では総代として答辞を読みました。
大学時代だけではなく、中学・高校でも成績はトップクラスだったことから美智子様が聡明であることが分かります。
また、大学時代のクラブ活動では、合唱部・英語劇クラブ・テニス部に所属。
テニス部では、在学中に新進トーナメントで優勝し、関東学生ランキング4位にランクインする実力の持ち主です。
運動だけではなく、1954年度の成人の日記念の読売新聞社主催の感想文では2位に入選していることから、「才色兼備」や「文武両道」という言葉通りの学生時代を過ごされていたのだと感じます。
大学卒業後は、フランス語の習得をしながら19世紀の児童文学の研究を続けおり、意外にも研究熱心な一面があることに驚きですね。
明仁天皇と出会い結婚
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長野県の軽井沢会テニスコートで開催されたテニスのトーナメント大会で、美智子様と明仁様が出会いました。
当時はテニスコートの誓いにちなんで「テニスコートの出会い」なんて言われていたようですよ。
お二人は、その後もテニスを通じて交際を深めていったと言われています。
また、明仁様は当時の美智子様の写真を「女ともだち」と題して宮内庁職員の文化祭に出品していたそうです。
しかし、「皇太子妃には旧皇族・華族から選ばれるのが当然」という考えが当たり前だった当時は、美智子様が「お妃候補」であることは誰も思っていなかったと言われています。
明仁様の中では、美智子様は既にお妃候補の一人として交流を深めていたのかもしれませんね。
1958年11月27日、皇太子明仁親王と正田美智子の結婚が皇室会議で満場一致で可決。
美智子様のご両親は明仁様の魅力についてこう語っています。
「とてもご誠実で、ご立派で、心から信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」
この言葉は当時の流行語にもなりました。
結婚が決まった後は、お二人の巨大な写真がデパートに飾られたり、「美智子様さまぬりえ」が発売されるなどのミッチー・ブームが巻き起こったそうです。
しかし、お祝いムードの中でもお二人の結婚には、旧皇族・旧華族から強く反対が起きていました。
今までは「皇太子妃は皇族か五摂家といった特定の旧華族に属する女性から選ばれる」ということが習わしだったため、平民である美智子様に対して風当たりが強い時代ともいえます。
それでも、昭和天皇の意向もありお二人は1959年4月10日に結婚されました。
結婚パレードには、沿道に53万人の市民が集まったことから、お二人のご結婚を待ち望んでいた方々が多かったことが分かりますね。
若い頃と今を比較した結果
ここからは、美智子様の昔と今の魅力を比較していきます。
実際にどのような点が変わったのかを見てきましょう。
眉毛が変になった真相
美智子様の眉毛が昔より変になっていると言われていることをご存知でしょうか。
確かに若い頃に比べたら眉毛が一本になっているように見えますね。
若い頃は眉毛の位置が低かったことが分かります。
現在、美智子様は87歳なので恐らく「眼瞼下垂」ではないかと言われています。
眼瞼下垂は、「まぶたを持ち上げる筋肉が衰え、まぶたが垂れる」という加齢により起こる症状の一つです。
また、眼瞼下垂でまぶたが下がると視界が狭くなってくるため、上皇后様は垂れてきたまぶたを引き上げるためおでこに力を入れている可能性があります。
そのため、おでこに深いシワと影ができてしまい、眉毛が一本に見えてしまっているかもしれません。
眼瞼下垂は、外因的要因や加齢により発生する現象の一つなので、病気でないことにはほっとしますね。
帽子が昔からエレガンス
美智子様と言えば、帽子の印象が強い方もいるのではないでしょうか。
皇太子妃時代はつばの大きな帽子を被っていることが多かったそうですが、時と共に帽子のサイズは小さくなっていきました。
若い頃は、大きめな帽子を被っていることが多い印象です。
帽子のデザインは、若い頃からエレガントだったことが分かります。
現在は小さい帽子を被っている印象が強いのではないでしょうか。
「相手の方と心を通わせたい、相手や周りの方から顔が見やすいよう」にという美智子様の配慮により小さくなったそうです。
美智子様の優しい気配りから小さくなったのですね。
また、美智子様は帽子にご自身の熱い想いを込められていたそうです。
訪問先に合わせて帽子のデザインを変えていたくらいですから、相手の方と心を通わせたいという強い意志を感じますね。
美しさは孫の佳子さまにも引き継がれている
美智子様の孫である佳子さま。
佳子さまも祖母の美しさを引き継いだのか、非常に美人な方ですよね。
佳子さま専門の記事は下記になります。
もしよろしければ見てみてください。
息子の嫁(紀子さま)も超美人
驚くことに、美智子様の息子である文仁様の嫁(紀子さま)も非常に美人な方です。
美智子様と深い関わりのある方は美人になってしまうのでしょうか。
紀子さまに関する詳しい情報は次の記事にまとめています。
見てみてください。
世間の声
まとめ
今回は、美智子様のエレガンスすぎる若い頃の魅力をまとめてみました。
- 小学校時代は「真面目な女子児童」、「活発で勝ち気」、「神経質な性格だった」と評されていた
- 中学・高校時代から成績はトップクラスで、大学の卒業式では総代として答辞を読んでいた
- 大学在学中に出場したテニストーナメントで明仁様と出会った
- 明仁様のご結婚には、旧皇族・旧華族から強く反発されていた
- 美智子様の眉毛の位置は「眼瞼下垂」の可能性がある
- 帽子のサイズは相手の方と心を通わせたいという強い想いから小さくなっていった
1989年から2019年までの約30年間、皇后としてお役目を果たしていた上皇后様。
若い頃は平民出身という理由で大変苦労されていたそうですが、現在は上皇様と静かに暮らしているそうです。
時代が平成から令和となり、皇后様から上皇后様となっても、気品に溢れたお姿は変わらず人々を魅了していくのだと感じます。