戦国時代から安土桃山時代、大活躍した戦国武将といえば「織田信長」なしでは語れませんよね。
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス。」という有名な言葉がありますが、その言葉の通り気性が荒い性格の織田信長の意外な一面を垣間見ることができるのが女性関係です。
そんな織田信長の意外な女性関係を見ていきましょう。
目次
正室:濃姫(帰蝶)
濃姫(のうひめ)は、織田信長の正室でした。
その名前は誰しも1度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
信長が主役のテレビなどでは度々登場し、時にはスポットが当たることも少なくありません。
それでは濃姫とはどんな人なのでしょうか?
濃姫は元々「帰蝶」という名でしたが、織田信長と結婚する際に「美濃からきた姫」を省略して「濃姫」という名前となりました。
織田信長との馴れ初めは(運命的出会い)というわけではなく織田家と斎藤家の和解を目的とした政略結婚だったのです。
それに実は、濃姫は戦国大名である「斎藤道三」の娘でした。
濃姫はしっかりとした精神力の持ち主で、あの織田信長と共に生きていける程の強さがある女性でした。
嫁ぐ際に父である斎藤道三から、「もしも、織田信長が本物のうつけ者であるならばこの短刀で殺してしまいなさい。」と言われ、短刀を渡された濃姫は、「もしも織田信長が大うつけではなく有能だった場合、父上を殺すことになるかもしれません。」と実父に言うほど強い女性だったのです。
そんな強い女性だからこそ織田信長を支えることができたのではないでしょうか。
しかし、織田信長と濃姫の間には子が授からず世継ぎを産むことができなかった濃姫は、この時代では辛い日々を過ごしたのではないかと思います。
そんな濃姫の最期は様々な説がありはっきりとはしませんが、恐らく強く戦国時代を生き抜いたのではないかと推測できます。
7人の側室たち
織田信長には正室の他に側室の女性が7人いました。
濃姫の他に織田信長が愛した女性を7人ご紹介いたします。
生駒吉乃
生駒吉乃(いこまきつの)は織田信長が最も愛した女性と言われています。
なぜなら、彼女が亡くなった時にあの織田信長が涙を流したというほどだったからです。
生誕の情報としては、「尾張生駒氏の生駒家宗の長女として生まれた」というものがありました。
実は、生駒吉乃は織田信長の前にも婚姻関係があり、織田信長と結婚した時はバツ1でした。
そして39歳の時に、産後の回復が悪く病により死亡してしまいます。
下記画像は、生駒吉乃の墓です。
生駒吉乃が亡くなるまで織田信長は忙しい中お見舞いに通い、生駒吉乃が亡くなった時には男泣きをしたというのです。
側室といえ、織田信長に泣いて悲しんでもらい生駒吉乃も嬉しかったのではないでしょうか。
ちなみに、生駒吉乃は、織田信長の子孫である織田信忠、織田信雄、徳姫の母でもありました。
お鍋の方
お鍋の方は興雲院(きょううんいん)という名で通称お鍋の方と呼ばれています。
生誕の情報としては、「近江国野州郡北里村の土豪である高畑源十郎の四女として産まれた」」というものがありました。
織田信長の側室であり織田信長が亡くなったあとも存命し、2男1女を授かった女性です。
本能寺の変で織田信長が亡くなると織田信長のお墓を建てたという非常に愛情が深い女性であるようです。
右から織田信忠、織田信長、織田信雄のお墓です。
信長が亡くなった後は豊臣秀吉の正室・ねねに仕えますが様々な問題が重なり、次々と子供たちに先立たれてしまったりと悲しみの多い女性だったようです。
子供がいる方がこの話を知ると、お鍋の方の悲しみは計り知れないのではないかと思い胸が苦しくなってしまうのではないでしょうか。
しかし、愛情が深い女性だからこそ織田信長が亡くなった後でも豊臣秀吉との繋がりが途絶えなかったのではないでしょうか。
坂氏
坂氏(さかし)は出生不明ですが、安芸の毛利氏の一族という説があります。
織田信長の側室であり、織田信孝の母でありました。
身分の関係で届けが遅れ、織田信孝の出生記録の順番を書き換えられたとの説も存在します。
信孝の娘と人質になり、更には磔となり亡くなっています。
孫娘と一緒に磔となるとは考えるだけで苦しい気持ちになりますね。
養観院
養観院(ようかんいん)は織田信長の側室であり、4男の羽柴秀勝を出産した女性です。
側室となった時期は生駒吉乃とほぼ同じ時期となった結果、どうしても生駒吉乃の方にスポットが当たってしまいました。
秀勝は体が弱く養観院より先に亡くなっており、死後は信長と秀勝の弔いの為に出家して修行を行ったようです。
ちなみに、出生や亡くなった時期は不明でした。
土方氏
土方氏(ひじかたし)は織田信長の父織田信秀の家臣だった土方真治の孫娘なのではないかと言われています。
織田信長の側室であり、9男の織田信貞の母でした。
織田信長、織田信雄、豊臣秀吉に仕えた人でした。
亡くなった時期は不明です。
慈徳院
慈徳院(じとくいん)は織田信長の側室であり、三の丸殿の母でした。
織田信忠の乳母をつとめ、織田信長に見染められた女性です。
そして、娘である三の丸殿は豊臣秀吉の側室となったと言われています。
乳母をしていたのに織田信長の目にとまるということは、それほど魅力的な女性だったのだと考えられます。
原田直子
原田直子(はらだなおこ)は織田信長の側室であり、家臣である塙直政の妹で織田信政の母でした。
織田信政は正式には織田信長の子として認められておらず謎の多い女性です。
森蘭丸とは怪しい関係ではなかった!
森蘭丸(もりらんまる)とは織田信長の側近で、度々「織田信長と怪しい関係ではないのか?」と噂されている人物です。
森蘭丸は元々家臣の森可成の三男で、今でいうエリート一族の生まれです。
そんな森蘭丸は、18歳という短い人生の中であの織田信長の側近まで昇進したのです。
その理由は、森蘭丸の有能な秘書ぶり働きが関係しています。
エリート一家であると共に、かなりの気遣いボーイかつ美男子だったということです。
現代でもモテモテになりそうなエピソードですね!
細かい気遣いもでき上司(織田信長)に恥をかかせないような配慮も備えていました。
そんな森蘭丸を織田信長が気に入らないわけはがありません。
織田信長の身の回りの世話も雑務も護衛も全てをこなしていた森蘭丸は出陣の際、女性を連れて行けないので夜のお供をしていたという話があります。
しかし、元々怪しい関係ではなくこの時代では出陣の時には当たり前の事だったようなのです。
織田信長にとっては「愛する人」というよりも「全てを任せられる部下」だったようです。
そんな森蘭丸はあの有名な本能寺の変にも大きく関わっているとされています。
有名なエピソードでは織田信長の褒美を受け取らない森蘭丸に織田信長から「両者の掌にそなたの欲しがっているものを書き記し両者の答えが同じならそれを褒美として与えよう。」と提案し、承諾した森蘭丸と織田信長の掌には「近江坂本の6万石」と書いてありました。
その近江坂本6万石とは、森蘭丸の亡き父の領地だったものと同時にその時、明智光秀の本拠地でもありました。
その話をきっかけに明智光秀は織田信長に不信感を抱き、本能寺の変を起こしたのではないかと言われています。
しかし、本能寺の変でも18歳という若さで命が尽きる最期まで、織田信長の為に尽くした森蘭丸は現代でも短い人生であったにも関わらず受け継がれる非の打ち所がないカリスマ性を持ち合わせた人物です。
世間の声
まとめ
今回は織田信長の嫁と噂の多い森蘭丸についてご説明させていただきました。
3つにまとめると下記の通りです。
- 濃姫との間には子供はおらず織田信長を芯の強さで支えた。
- 織田信長が最も愛した女性は意外にも側室の生駒吉乃だった。
- 織田信長と森蘭丸は怪しい関係というより信頼できる師弟関係であった。
現代においても続く織田家のもとには様々な女性の存在があったのです。
天下統一を目指した戦国武将をここまで大きくできたのはこの女性達の支えがあったのだと思います。
そして、織田信長に仕えた女性達は共通して織田信長を様々な形で愛していたのではないかと思います。
女性が自立しようとする現代、女性の芯の強さは過去も今も変わらないのではないでしょうか。