シーボルトと言えば、長崎・出島に医師として来日し、日本に最新の医学を広めた人として有名です。
今回はシーボルトの娘・楠本イネが日本で初の女性産科医、そして、楠本イネの娘も産科医を目指していた、とのことで2人の人生を調査してみました。
家系図
シーボルトは最初にたきと結婚し、へレーネとはオランダ帰国後に結婚しています。
楠本イネ、楠本高子には、意外にもアレクサンダー、ハインリヒとも繋がりがありました。
娘・楠本イネ
こちらが楠本イネです。当時としてはめずらしい、ドイツ人と日本人との混血児として生まれました。
きっととても美しかったのではないでしょうか。
日本人初の女性産婦人科になった経緯
楠本イネは日本で初の女性産科医です。
どのようにして人生を切り開いてきたのでしょうか。
楠本イネが女性産科医になったきっかけは、父・シーボルトの存在が大いに影響しています。
楠本イネは、シーボルトが長崎で惚れた遊女・たきとの間に生まれました。
長崎で父・シーボルト、母・たきと暮らしていましたが2歳の時にシーボルトとは離れ離れになってしまいます。
シーボルトがオランダに一時帰国する時、伊能忠敬からもらった日本地図を持ち帰ろうとしたことが発覚したためです。当時「日本地図」は国外持ち出し禁止とされていたのです。
シーボルは身の潔白を明らかにしようと務めましたが、国外追放となってしまいます。
シーボルトとは離れ、長崎で母・たきと2人暮らしていた楠本イネですが、ドイツと日本人との混血は当時とはしてはめずらしく、`差別を受けていました。
しかし、その中でも、父・シーボルトから送られてくる医学書や蘭学書から医学に興味を持ち、医師の道を志します。
医師を目指し、楠本イネは、シーボルト門下の伊予宇和島の二宮敬作から医学の基礎を学びます。
5年間の修行の後、二宮敬作からの勧めもあり、岡山の石井宗謙の元へ行き産科を学びました。
ここから楠本イネの日本人初の女性産科医のキャリアが始まり、宇和島藩のお抱え医師にまでなりました。
その後、異母弟にあたるシーボルト兄弟(アレクサンダー・ハインリヒ)の支援により東京の築地に開業しました。
その人気ぶりは凄まじく、福沢諭吉の口添えにより宮内庁御用掛にまで上り詰めたのです。
それは、男女の垣根を超え、一線の医師として認められた瞬間でした。
明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会うなど、その医学技術は高く評価されました。
楠本イネは幼少期から父親が国外追放となったり、混血により差別を受けたりと壮絶な経験をしてきましたが、産科医になるという強い意思の元、女性産科医の道を自ら切り開き、認められたのです。
シングルマザーになった理由
母親となることは楠本イネ自身にとってもの想定外のことでした。
石井宗謙からの強姦により子供を身ごもってしまったからです。
混血であった楠本イネは、差別を受けてきたこともあり、子供を産むことを諦めていました。
しかし、石井宗謙から強姦され、子供ができてしまいました。
楠本イネは石井宗謙を激しく恨み、未婚のまま出産しました。
生まれてきた子供を「天がただで授けたもの」という意味を込めて「タダ」と名付けたそうです。
タダは、後に伊達宗城から指示され「楠本高子」と改名しています。
このように、楠本イネは不運な妊娠をしてしまいましたが、シングルマザーとして生きることを選択したのです。
孫・楠本高子も、産婦人科を志したが!
楠本高子も母・楠本イネと同じ不運な運命をたどります。
想定外の妊娠により、産婦人科医を諦めることとなるのです。
楠本高子は幼少期は芸事に夢中となり、医学には全く興味を示せず母の楠本イネを嘆かせていました。
14歳で母の師・二宮敬作の縁により宇和島藩の奥女中として奉公を始めます。
その後、二宮敬作の甥にあたる三瀬諸淵と結婚しました。
三瀬諸淵はシーボルト門下の医師でした。
しかし、11年の結婚生活の後、三瀬諸淵に先立たれてしまい、異母兄・石井信義の元で産科医を目指します。
ところが、医学を学んでいる最中、医師・片桐重明に強姦され、子供を身ごもってしまったのです。
この不運な妊娠により、楠本高子は産婦人科医となることを断念するしかありませんでした。
楠本高子は失意の中にいましたが、かねてより求婚されていた医師・山脇泰助と再婚しました。
山脇泰助との間には一男二女を授かりましたが、結婚7年目に山脇泰助が亡くなり死別します。
その後、叔父のハインリヒの世話を受け、母・楠本イネと暮らすことになります。
以後、幼少期の頃熱中していた芸事の教授となり生計を立て暮らしました。
娘・楠本高子も数機の運命をたどり母と同じ産科医の道を目指しますが、母と同じように強姦により妊娠し、医師の道は諦めざるを得なかったのです。
世間の声
まとめ
楠本イネと楠本高子のことを調べたところ、以下がわかりました。
・楠本イネは日本で初の女性産科医として、その地位を切り開いた。
・楠本イネは不運な妊娠によりシングルマザーとして娘・楠本高子を産み育てた。
・楠本高子も産科医を目指したが、母と同様、不運な妊娠により産科医を断念せざるを得なかった。
今は当たり前に活躍している女性産科医ですが、楠本イネの活躍により今につながっていることを実感しました。
当時の女性からしたら想像がつかないほどの、たくましい生き様だったのではないでしょうか。
そして、楠本イネも楠本高子も望まない妊娠であったことは驚愕でした。
楠本高子は産科医になることまで断念しており、本当に辛いことであったろうと思います。
今後、女性産科医と接する機会があれば、楠本イネの活躍を思い出すでしょう。