明治42年に生まれ日本を代表する文豪の太宰治は、さまざまな作品を発表しながら4回も自殺未遂を起こしていました。
主な作品として「走れメロス」や「人間失格」などがあり、中でも没落した華族を描いた「斜陽」はベストセラーとなって今でも書店に並ぶ名作となっています。
なぜそんな文豪が何度も自殺未遂を起こし、非業の死を遂げたのでしょうか。
今回はそんな太宰治が図った自殺の全貌について触れてみたいと思います。
目次
自殺の全貌
太宰治は38歳の人生を入水自殺で閉じました。
しかも彼はそれまでに4回自殺未遂をおこし、5回目の自殺で人生の最期を迎えることになったのです。
死因:溺死
太宰治の死因は入水自殺による溺死です。
1948年6月13日の深夜、愛人だった山崎富栄と玉川上水に身を投げて自殺を図りました。
その時2人の体は帯で結んで離れないようにしたまま飛び込んだと言われています。
しかし下駄を突っ張って落ちないように耐えていた跡や、滑り落ちるのを防ごうとする手の跡なども残っており、死の直前になって生への執着が現れたのでは?と言う憶測も飛んでいます。
また、2人の遺体は6日後の6月19日に発見され、その日は太宰治の39回目の誕生日でした。
こちらの写真は、太宰治の入水自殺の現場となった玉川上水のものです。
今ではすっかり水も少なくなっていて、とても自殺ができる状態ではなさそうです。
一緒に入水自殺した山崎富栄は愛人だった
山崎富栄は1919年に東京で生まれ、父親は日本で初めての美容学校「東京婦人美髪美容学校」を設立した山崎晴弘でした。
1944年に一度三井物産に勤めていた男性と結婚をしますが、夫が戦地へ向かいそのまま行方不明となってしまいます。
その後夫の戦死の通達を受け取った富栄は美容師として働いており、1947年に太宰治と出会いました。
その時の口説き文句は「僕と死ぬ気で恋愛してみないか」というもので後に愛人関係へと発展し、太宰治を愛するようになります。
結核を患っている太宰治の毎日を支え、自分の貯金も療養のためにあてていました。
しかし、その時太宰治には妻以外にも太田静子という別の愛人もいたのです。
それでも太宰治を心から愛していた富栄は彼が自殺をする話を聞き、自分も一緒に逝きたいと願って飛び降りた、といいます。
享年27歳でした。
妻・美知子宛の遺書
愛人と自殺を図った太宰治でしたが、その後毛筆で清書され署名もされていた遺書が発見されました。
ワラ半紙9枚になる遺書は、妻の美知子に宛てて「誰よりも愛してゐました」と書いてあり、自殺の理由として「小説を書くのが嫌になったから死ぬのです」と綴ってあったと言います。
太宰治の作品である「晩年」は、そんな妻への遺書として書かれたのではないか、とも言われています。
ちなみに、色々な愛人と逢瀬をすごした太宰治の一番愛していたのは、やはり美知子(2番目の妻)だったという意見もあります。
3つの自殺の理由
太宰治を自殺にかり立てたわけとは一体なんだったのでしょうか。
そこには大きく分けて3つの理由がある、と言われています。
芥川龍之介の自殺の影響
理由の1つ目は、敬愛する芥川龍之介の服毒自殺が影響していると考えられます。
太宰治は16歳の頃から仲間と同人雑誌へ投稿する活動をしていましたが、その頃から芥川龍之介に傾倒していました。
芥川龍之介の自殺は、まだ18歳だった太宰治にとっては耐えられない悲しみだったに違いありません。
薬物依存の影響
理由の2つ目は薬物を取りすぎによる依存症、という説があります。
太宰治は3回目の自殺未遂の後に腹膜炎を発症し、手術を受けます。
治療のために打たれた鎮痛剤であるパビナールの依存症に陥ってしまいました。
パビナールの依存は根治したものの精神的に太宰治を苦しめ、自殺に導いたとも言われています。
結核の影響
理由の3つ目としては、長年患っていた結核が挙がっています。
結核は肺の中に結核菌が増殖する病気で、昭和20年代までは「不治の病」などと言われていました。
太宰治も咳や呼吸困難、吐血などに苦しめられその症状はどんどん悪化していったそうです。
晩年は非常に苦しみながら名作「人間失格」を完成させました。
自殺未遂は4回していた
太宰治の自殺が敢行されるまで、4回もの自殺未遂を繰り返していました。
妻や複数の愛人がいて、執筆活動も順調だった太宰治。
一見順調に見えた彼の作家人生ですが、なぜ太宰治は何回も自殺未遂を図ったのでしょうか。
1回目の自殺未遂
1929年、太宰治は自分が通っていた旧制弘前高等学校で起きた左翼運動をモデルに「学生群」という作品を執筆し、出版社の懸賞小説に応募するも、落選してしまいます。
この落選があまりにもショックで受け止めきれない太宰治は、カルチモンという薬を多量に接種して自殺を図りました。
けれどこの自殺は失敗に終わります。
また、太宰治はこの自殺の理由について著書「苦悩の年鑑」の中で「私は賎民ではなかった。ギロチンにかかるほうの役であった」と綴っています。
つまり自分の身分と思想の違いが自殺を図る理由であった、と言うことです。
2回目の自殺未遂
1930年、大学に通うために上京していた太宰治を頼りに、恋人で芸者の小山初代も結婚を前提に上京します。
しかし、家族は芸者との結婚に猛反対。
それでも初代との結婚を諦めない太宰治に対し兄は、彼を家から除籍することを条件に結婚を認めました。
学費だけは払ってもらっていたものの、除籍され期待していた財産分与の権利も剥奪されたことにひどく落胆し、愛人であった田部シメ子と前回と同様カルモチンを大量に飲んで自殺を敢行します。
しかしまた太宰治は生き残り、田部シメ子だけが死んでしまうのです。
こちらは、太宰治と心中を図った田部シメ子(享年17歳)の写真です。
銀座のカフェで働いていて、太宰治と出会いました。
3回目の自殺未遂
1935年大学5年になっていた太宰治は、大学を卒業することができずにいました。
このままでは学費の仕送りも打ち切られてしまう不安に駆られ、就職活動を始めます。
新聞社の就職試験を受験するも、結果は不合格。
3月18日、将来の不安に苛まれ首吊り自殺を行いますが、この自殺も未遂になりました。
この後、腹膜炎を患ってしまいます。
4回目の自殺未遂
1935年に腹膜炎の手術を受けてから、パビナールという鎮痛剤の依存症になっていた太宰治。
どうしても欲しい芥川賞のため、師事する佐藤春夫に恥を忍んで受賞を乞う手紙を送ったりもしましたが、2年連続で落選。
3回目の選考では候補にすらならなかったのです。
芥川賞落選のショックからますます薬物依存を強める太宰治に、親類の学生が太宰治の妻、初代との不貞行為を告白します。
その告白に絶望した太宰治は1937年3月下旬、初代とカルモチンの多量摂取による自殺を決行。
しかし、この自殺も未遂に終わり初代とは離別しました。
世間の声
まとめ
今回は太宰治の自殺の全貌、ということで自殺の理由や原因などについて迫ってみました。
- 死因は愛人の山崎富栄と一緒に決行した入水自殺による溺死
- 妻には「誰よりも愛してゐました」と遺書を残していた
- 自殺の理由①「敬愛する芥川龍之介の服毒自殺」
- 自殺の理由②「治療薬による薬物依存」
- 自殺の理由③「結核を患ったことで悪化していく症状」
- 自殺未遂①「懸賞小説に落選したから」
- 自殺未遂②「財産分与の権利がなくなったから」
- 自殺未遂③「就職試験に不合格だったから」
- 自殺未遂④「妻による不貞行為がショックだったから」
「誰よりも愛してゐました」と遺書を残すほど大切な妻を持ちながら、愛人と自殺をしてしまう太宰治。
あまりに繊細がゆえに多くの苦しみを抱えていた生涯でした。
そして、その苦しみや生への儚さが太宰治の美しい名作を世に出したのです。
時にはスマホを手から離して太宰治の作品を開き、その小さな声に耳を傾けてみるのもいいかもしれません。