ハプスブルク家とは、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族です。
血族結婚を繰り返していたことでも有名な一族です。
そんな、ハプスブルク家の末裔がタレントとして現在も活躍しているので、紹介していきます。
目次
家系図
こちらは、ハプスブルク家の略系図になります。
祖家からスペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分かれています。
日本人の末裔たち
ハプスブルク家の末裔には日本人の方もいますので、紹介していきます。
鰐淵晴子
鰐淵晴子さんは、女優・歌手・ヴァイオリニストです。
ハプスブルク家の末裔の1人である、オーストリア人の母・ベルタと鰐淵賢舟との間に出生。
なんと、娘はタレントの鰐淵理沙さんなのです。
ヴァイオリンの演奏家・指導者であった父親のもと、3歳からヴァイオリンの英才教育を受けていた鰐淵晴子さん。
8歳の頃には全国各地で演奏旅行を行い、当時は「天才少女ヴァイオリニスト」と騒がれていました。
鰐淵晴子さんがヴァイオリニストとして高い評価を受けていたことがわかります。
ヴァイオリニストとしての活動だけではなく、1952年に『母子鶴』で映画初出演を皮切りに1955年『ノンちゃん雲に乗る』の主演で本格的に女優活動を開始。
1960年代前半の松竹を代表するスターとして活躍を見せてきた鰐淵晴子さんは1995年に『眠れる美女』や『平成無責任一家 東京デラックス』、『遥かな時代の階段を』の3作品などで毎日映画コンクール女優助演賞を受賞しています。
現在は、映画だけではなくテレビドラマや舞台、CM、吹き替え等幅広く活動しています。
鰐淵理沙
鰐淵理沙さんは、声楽家・タレントです。
母は女優の鰐淵晴子さん、祖母はハプスブルク家の末裔の1人でもある鰐淵ベルタ。
洗足学園音楽大学声楽科卒業後、ドイツに渡りケルン音楽大学で声楽及び音楽教育学を学び修士課程を修了。
音楽大学卒業後は、2014年までドイツで活動されていました。
2007年~2010年はケルン室内オペラでソリストとして、「魔笛」や「学生乞食」、「こうもり」、「天国と地獄」などに出演。
アーヘン市立歌劇場では、「ドン・ジョバンニ」の他にアンサンブルの歌手として活躍。
声楽家として、評価し続けられていたことが伺えます。
2014年に日本に活動拠点を移しコンサート歌手やタレントとしてCM出演など、幅広く現在も活動中です。
外国人の末裔たち
ハプスブルク家の中で現在も続いている一族、ハプスブルク=ロートリンゲン家をご紹介します。
カール大公
カール・ハプスブルク=ロートリンゲンは、ハプスブルク=ロートリンゲン家の現当主です。
オットー・フォン・ハプスブルク(オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子だった)とザクセン=マイニンゲン公女レギーナの間に長男として出生されました。
最後のオーストリア皇帝・福者カール1世と皇后ツィタの孫でもあります。
ヨーロッパ諸国の王侯貴族やローマ教皇、王党派からは現在でも「オーストリア大公」や「殿下」などの伝統的称号・敬称で呼ばれています。
カール大公は、「私の家系は代々政治のプロだった。政治家になることに何の違和感もない。」の発言の通り、1996年から1999年まで父であるオットーと同じく欧州議会議員を務めていました。
欧州議会議員を務めた後、国際汎ヨーロッパ連合オーストリア支部長や代表なき国家民族機構事務局長、ブルーシールド国際委員会初代代表等を歴任しています。
現在は代々ハプスブルク家が継いできた、金羊毛騎士団・聖ゲオルク騎士団・ヨーロッパ聖セバスティアン騎士団の騎士団長を務めています。
エレオノーレ大公女
エレオノーレ・ハプスブルク=ロートリンゲンは、カール・ハプスブルク=ロートリンゲンの娘です。
現在でも「エレオノーレ・フォン・ハプスブルク」や「オーストリア公女」などの伝統的呼称で呼ばれることがあります。
スイスの名門校「ル・ロゼ」を卒業後、法律を学ぶためにヨーロピアン・ビジネス・スクール・ロンドンへ通い、2017年に修了後にモデルの世界に入りました。
また、ハプスブルク家の子女は伝統に従って多くの言語を学ばされていたそうです。
エレオノーレ大公女はドイツ語と英語を流暢に話すことができ、他にも上級のフランス語と初歩のスペイン語が話せます。
伝統とはいえ、4か国語話せるだけでもエレオノーレ大公女自身頭脳明晰だったと伺えます。
2020年にレーシングドライバーのジェローム・ダンブロシオとモナコで結婚式をを挙げて、翌年に第一子を出産しました。
また、オットー・ハプスブルク財団の理事も務めています。
フェルディナント=スヴォニミル大公
フェルディナント・ズヴォニミル・ハプスブルク=ロートリンゲンは、カール・ハプスブルク=ロートリンゲンの息子です。
2019年時点で、ハプスブルク家は男系男子を家内法で定めているため、長男であるフェルディナントが次期当主とされています。
現在もレーシングドライバーとして活躍しているフェルディナントさん。
8歳の頃に父親に連れられた屋外のカート場で乗り始めたことがきっかけになります。
14歳の頃に、オーストリアのカートレースチームであるスピードワールドアカデミーに入ったことで、本格的にカーレースへの参戦を始めました。
2014年に四輪レースへの参戦を始め、フォーミュラ・ルノー1.6のノーザン・ヨーロピアン・カップ(NEC)で初年度ながら15戦全て完走。
ランキング4位となると、翌年にはフォーミュラ・ルノー2.0にステップアップしました。
2016年にはフォーミュラ3にステップアップし、ユーロフォーミュラ・オープン選手権にフル参戦すると、年間ランキング2位という結果を残しています。
ヨーロッパでは名が知れ渡っている中で、現役のレーシングドライバーして活躍し続けるだけドライバー技術が高いことが分かります。
FIA世界耐久選手権やル・マン24時間レースなどにも参戦し、現在でもレーシングドライバーとして活躍し続けています。
ハプスブルク家の全貌
ハプスブルク家が現代まで、どうやって末裔を残してきたのかを紐解いていきます。
ヨーロッパを650年間支配していた
元々は、アウストラシアのエティション家の分家であり、スイス北部のライン川上流域が発祥地のハプスブルク家。
家祖は10世紀に東フランク王国アルザス地方のブライスガウ(ドイツ語版)に存在したグントラム金満公です。
ハプスブルク家は、チューリッヒ州やアールガウ州、トゥールガウ州で伯爵権などの政治的特権を得ることや婚姻政策を通じて影響力を拡大してきました。
13世紀には、上アルザスとシュヴァーベンの名家を婚姻政策の目標とし、彼らは一族のために教会においても高い地位を得えたのです。
1273年にハプスブルク伯爵ルドルフ4世がローマ王に選出され、「ルドルフ1世」として世に出ました。
ルドルフ1世は、1278年にボヘミア王オタカル2世を破り、1282年にオタカル2世の所領であったオーストリア公国を息子に与え、帝国南東部に勢力を広げていきます。
これ以降、ハプスブルク家はスイスで徐々に領地を失ったこともあり、軸足をオーストリア地方に移しました。
1308年にルドルフ1世の子が甥のヨーハン・パリツィーダによって暗殺後、一時的に勢力が衰えましたが一族はオーストリア公として勢力を広げ、やがてルドルフ4世が「大公」を自称したのです。
1438年にアルブレヒト2世が、次いで144年フリードリヒ3世がローマ王に即位してからは、ほぼ王位を世襲することに成功しています。
一時的に勢力が落ちたといえ王位を世襲するまでに盛り返したのは凄いです。
1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始めました。
マクシミリアン1世は当時ヨーロッパ最大の富裕・繁栄を誇ったヴァロワ=ブルゴーニュ家に婿入りに近い形として婚姻すると、領地を子に継承させました。
その結果、皇帝カール5世の下でヨーロッパの一大帝国を築き上げることができたのです。
ハプスブルク家が婚姻で領地を広げていったことがここだけでもわかります。
19世紀初頭に神聖ローマ帝国はフランス皇帝ナポレオン1世の攻撃に屈して、ハプスブルク家のフランツ2世が退位したことにより神聖ローマ帝国は解体されました。
しかし、フランツは1804年にナポレオンがフランス皇帝として即位する前にオーストリア皇帝フランツ1世を称し、以降ハプスブルク家はオーストリア帝室として存続しました。
ナポレオン1世追放後は、再び勢力を強めたハプスブルク家ですが、クリミア戦争皮切りにその勢力に陰りが落ち、最終的にはドイツ連邦から追放され、国際的地位を低下させたのです。
合わせて国内でも、多民族国家であることから諸民族が自治を求めて立ち上がり、当時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー人に対して妥協したことにより、1876年にオーストリア=ハンガリー帝国として再編されました。
再編後も、民族問題は深刻さを増していきます。
1908年にボスニア・ヘルツェゴビナ併合を行ったことにより、大セルビア主義が高揚しロシアとの関係も悪化。
1914年に皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されたことがきっかけになり、オーストリアのセルビアへの宣戦から第一次世界大戦が開戦します。
長引く戦争とロシアのレーニン政府の戦線離脱など、様々な要因が重なりハプスブルク家を解体しないとしていた連合国側は、チェコスロヴァキアに独立を約束したことがきっかけになり、帝国内の民族も続々と独立。
遂に盟邦ハンガリーもオーストリアとの完全分立を宣言しました。
ハプスブルク家最後の皇帝カール1世が亡命したことにより、650年間ヨーロッパで君臨したハプスブルク帝国は1918年に崩壊したのです。
シェーンブルン宮殿での豪華な生活
ハプスブルク王朝時代の歴代君主が、主に夏の離宮として使用していたシェーンブルン宮殿。
特に好んで使用していたのが、マリア・テレジアとフランツ2世です。
シェーンブルン宮殿の鏡の間では、当時6才だったモーツァルトが演奏を披露しています。
シェーンブルンは元々は近くにウィーン川が流れている王の狩猟場でした。
オスマン帝国の脅威が去った後に、神聖ローマ皇帝レオポルト1世は息子のために新しい宮殿を建設することを決意したそうです。
息子のために宮殿を建設するという発想が凄いですね。
宮殿建設は当初は壮大な宮殿が計画されていましたが、当時のハプスブルク宮廷の財政では難しいとされ、計画案の見直しと共に計画は大幅に縮小されました。
しかし、バロック様式の外観の宮殿の中に1441室の部屋があり、約1000人もの侍従や使用人が住んでいたそうなので計画が縮小されたとはいえ豪華な造りなのには間違いないですね。
なお、外観は元々金を塗る計画だったのが財政状況を考慮したマリア・テレジアの指示により黄金に近い黄色で塗られました。
この色を現在でも「テレジア・イエロー」と言われています。
また、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、毎年春秋をシェーンブルン宮殿で過ごし、晩年には王宮ではなくシェーンブルン宮殿に常在したと言われています。
近親婚で血統を守り続けていた
ハプスブルク家は、婚姻によって所領を増やしてきました。
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が残されるほどです。
一方で婚姻による所領の流出も恐れていたと言われており、叔父と姪やいとこ同士という血族結婚を数多く重ねてきました。
その結果、17世紀頃に誕生した子供の多くが障害を持っていたり、幼くして死亡するという事態が起きてしまいます。
カール5世以降には、下顎前突症の人物が一族に多くなっていたようで、カール5世は不正咬合のために食事は丸呑み状態だったと言われています。
しかしながら、ハプスブルク家は強固な当主の概念があったため、外戚に家を乗っ取られることも一族内で争いが起こることも稀だったようで、血族結婚を繰り返したことにより家を守り続けることができたとも言えます。
特徴はあごのしゃくれ
ハプスブルク家の特徴と言えば、顎ではないでしょうか。
正式名称は下顎前突症といい、欧米人に約1%程度現れる顎変形症です。
別名「ハプスブルク家のあご(下唇)」とも呼ばれています。
血族結婚が多かったハプスブルク家の特徴としてみられ、骨格性下顎前突症は遺伝的な要因が大きく関わっていることが分かります。
別名として使われるくらい、ハプスブルク家の特徴となっていたことも伺えますね。
世間の声
まとめ
今回は、ハプスブルク家の末裔を紹介しました。
まとめると下記のようになります。
- 鰐淵晴子さんは現在も女優として日本で活躍中
- 鰐淵理沙さんは現在もタレントとして活躍中
- カール大公は現在も、ハプスブルク家が代々務めている騎士団の団長を務めている
- エレオノーレ大公女はモデルを務めながら、オットー・ハプスブルク財団の理事を務めている
- フェルディナント大公は、現在もレーシングドライバーとして活躍中
ヨーロッパで長年名を馳せてきたハプスブルク家の末裔が、日本で女優・タレントとして活躍していることに驚きました。
現代まで続いているハプスブルク家の歴史がこれからどう続いていくのか楽しみです。