国宝、そして日本初の世界遺産でもある姫路城。
姫路城は戦の舞台になることもなく、第2次世界大戦の戦火に巻き込まれることもなく、建築当時の美しい姿を今でも留めています。
そんな姫路城は、数々の武将たちが改修を繰り返し今の形になっていきました。
誰がどんな形で姫路城と関わっていったのか、詳しく見ていきましょう。
目次
姫路城の始まりにはふたりが関わっている
姫路城の始まりにはふたりの武将が関わっていることが分かりました。
- 1333年:元弘の乱の際に赤松則村が姫路城の元となる砦を築く
- 1946年:赤松則村の次男である赤松貞範が砦の場所に姫路城を築く
それでは詳しく見ていきましょう。
砦を築いた赤松則村
- 名前:赤松則村 (あかまつのりむら)
- 法名:円心
- 生年:1277年
- 没年:1350年(享年73歳)
- 時代:鎌倉時代~南北朝時代
- 主君:北条高時→後醍醐天皇→足利尊氏
- 若い頃の動向は不明
1333年57歳の時、元弘の乱(後醍醐天皇vs鎌倉幕府)で、後醍醐天皇の命を受け、打倒幕府の兵を挙げます。
山陽道を東上して京へ侵攻、足利尊氏らと六波羅(ろくはら)を攻め落としました。
鎌倉幕府が滅び、建武政権が樹立。
しかし建武政権では、政権内部の対立から六波羅を倒した功績は認められませんでした。
命をかけて敵を倒したのに、認められないなんて、何とも不遇ですね。
足利尊氏が建武政権に背くと、これに従い播磨守護になり、室町幕府の確立に大きく貢献したそうです。
1333年2月京都に向かって進軍する途中、幕府方の西国の兵が後ろから襲ってくるのに備え砦を築きました。
それが姫路城の始まりです。
赤松則村の時代は、いわゆる「城」のかたちではなく、「砦」の状態だったそうです。
建てた赤松貞範
- 名前:赤松貞範 (あかまつさだのり)
- 生年:1306年
- 没年:1374年(享年69歳)
- 時代:鎌倉時代後期~南北両時代
- 主君:後醍醐天皇→足利尊氏
- 父:赤松則村(次男)
- 父赤松則村と共に、後醍醐天皇、足利尊氏を主君として活躍した武将
- 1356年に美作国守護を任命され、赤松一族は大きな勢力を持つことになった
1346年父が築いた砦に、姫路城の基礎となる城を築きました。
赤松氏が断絶した後は、赤松氏側の武将小寺氏が姫路城主を務めます。
当時は「城」というよりも「館」のような建物だったそうです。
そして、「姫山城」と呼ばれていました。
姫路城を強化した人物たち
まだ館のような建物だったものを、本格的に城の形にしていった人物が、黒田官兵衛・豊臣秀吉・池田輝政です。
どのように強化していったのか、詳しく見ていきましょう。
姫路城の名を広めた黒田官兵衛
- 名前:黒田官兵衛 (くろだかんべえ)
- 本名・別名:祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、如水(じょすい)
- 生年月日:1546年11月29日
- 没年月日:1604年4月19日(享年59歳)
- 時代:戦国時代~江戸時代初期
- 主君:①小寺政職②織田信長③豊臣秀吉④豊臣秀頼⑤徳川家康
- 妻:櫛橋光(くしはしてる)、小寺政職(こでらまさもと)の姪
- 豊臣秀吉の側近。織田信長、徳川家康にも仕える
姫路城で生まれた、ただ1人の人物だそうです。
祖父黒田重隆は、当時播磨国で勢力を持っていた小寺政織(こでらまさもと)に仕えていた縁で、小寺政職の姪、光(てる)を正室に迎えて姫路城主になります。
戦う相手の食料を断って、自分たちを勝利に導く「兵糧攻め」や、川の水をせき止めてその水を城内に引き入れることで城を水没させる「水攻め」と、「戦わずして敵に勝つ」頭脳派の武将でした。
1569年、姫路城に攻め入ってきた赤松政秀の軍勢に約10分の1の軍勢で対抗し、奇襲攻撃などで見事撃退します。
そして姫路城の名を世に知らしめたのです。
3層の天守閣を築いた豊臣秀吉
- 名前:豊臣秀吉(とよとみひでよし)
- 別名:羽柴秀吉(はしばひでよし)
- 生年月日:1537年2月6日
- 没年月日:1598年8月15日(享年62歳)
- 時代:戦国時代~安土桃山時代
- 主君:松下之綱→織田信長→織田秀信
- 妻:正室-浅野長勝の養女、高台院 側室-浅井長政の娘、淀殿(浅井茶々)
- 織田信長の後を継いで天下を統一
- 太閤検地や刀狩りをしたことで有名
1575年中国計略の攻撃拠点として黒田官兵衛から姫路城を提供されました。
いくら自分の君主だからと言って、お城を提供してしまうなんて、黒田官兵衛も太っ腹ですね。
1580年、黒田官兵衛の進言を受け姫路城に石垣を作り、また3層の天守閣を築いた城へと大規模改修していきます。
豊臣秀吉は身長が低かったようで、150㎝前後だったと言われています。
側室の淀殿は当時の女性では長身の168㎝もあったそうです。
自分の低身長から、背の高い大きな城に憧れを抱いていたのではないでしょうか。
5層の天守閣を築いた池田輝政
- 名前:池田輝政(いけだてるまさ)
- 生年月日:1564年1月31日
- 没人月日:1613年3月16日(享年50歳)
- 時代:安土桃山時代~江戸時代初期
- 主君:織田信長→豊臣秀吉→豊臣秀頼→織田信長→徳川秀忠
- 父母:父、池田恒興 母、善応院
- 母が織田信長の乳母だったため、織田信長からの信頼は厚かった
1582年本能寺の変で織田信長が亡くなった後は豊臣秀吉に仕え、「小田原の役」や「九州平定」など主要な合戦の大半に従軍して、功績をおさめています。
1600年関ヶ原の戦いでは、東軍の主力となって西軍を攻め落とす活躍をしました。
その後姫路城城主になり、1601年から姫路城の改修工事に取り掛かり、1609年に完成します。
この改修で天守閣が5層になり、壁が白くなったそうです。
今では映画やドラマのロケ地として大人気
その美しさから、今では多くの映画やドラマの撮影が行われています。
暴れん坊将軍シリーズ 1978年~2002年(江戸城として登場)
引っ越し大名 2020年
見て分かる通り、非常に見栄えの良いお城ですよね。
世間の声
まとめ
今回は姫路城の建てた人物や強化した人物のことについて、深く迫ってみました。
記事の内容をまとめると以下になります。
- 1333年、元弘の乱の際に赤松則村が姫路城の元となる砦を築く
- 1946年、赤松則村の次男である赤松貞範が砦の場所に姫路城の基礎となる城を築く
- 1569年、黒田官兵衛が姫路城に攻め入ってきた軍勢を撃退し、姫路城の名を世に知らしめる
- 1580年、豊臣秀吉が姫路城に石垣を作り、3層の天守閣を築いた城へと大規模改修
- 1601年~1609年、池田輝政が姫路城の改修工事に取り掛かり、壁を白くして、5層の天守閣にした
白く美しい姫路城ですが、今の美しい姿になるまでに多くの武将が関わり、姿を変えていきました。
姫路城を訪れる際には、ぜひ多くの武将が関わっていたことを思い出してみてください。