バラエティ番組に欠かせない存在のヒロミさん。
ヒロミさんは、日本のお笑いタレント、司会者、そしていくつかの会社社長やCCO(最高商務責任者)を務める実業家でもあります。
また、射撃スポーツの普及を目指すクラブ「芸能文化人ガンクラブ」会長や、東京都八王子市出身または縁がある有名人たちが八王子市を盛り上げるために結成された会「八王子会」の代表といったコミュニティを牽引する存在でもあります。
2023年8月、日本テレビ系「24時間テレビ46」のチャリティーランナー決定時「おじさん代表としてやってみます」と語り、50代後半のヒロミさんは「全国のおじさん代表」として堂々と完走したことは記憶に新しいと思います。
今回は、ヒロミさんの若かりし伝説エピソードを調べてみました。
芸能界に入る前についていた職業
一握りの人だけが芸能界入りできる、そして芸能人になって幸いにも、最初のうちはスムーズに売れるということもあるでしょう。
しかし、人の興味は移ろいやすく、長年ファンでいてもらい続けることは非常に難しいこと。
その世界で大活躍されているヒロミさんですが、芸能界に入る前は何をされていたのでしょうか。
大手自動車メーカー販売店の営業
ヒロミさんは、高校卒業後おじの経営する日産自動車の販売会社で営業マンだったといいます。
数年前にラジオ番組にゲストとして生出演。
リスナーさんから「高校を卒業した後、自動車関係の会社で働いていた」との情報が寄せられ、それに対してヒロミさんは、おじさんの会社に勤めていたと明かしています。
確かに、車をカスタムできるほどのスキルを持っているヒロミさんは、芸能界きっての車愛好者として有名ですし、SNSの写真や動画などからはヒロミさんが車を楽しんでいることが分かります。
また、メディアでのヒロミさんのトークスキルやコミュニケーション能力は、人を引き立てたり笑いに変えたりできる能弁なトークを繰り広げているので、芸能界入りする前から自動車が好きで、営業マンとして活躍していたと想像できますね。
ホストクラブでNo.1
20歳になる前には、新宿・歌舞伎町でホストをしていた過去をこれまで様々なメディアで話されています。
芸能界に興味はあるもののテレビに出るにはどうすればと思案していた時期だったと言います。
求人情報誌でテレビ番組制作会社へ応募したが不合格、他にも応募したが雇ってもらえないことが続きました。
ヒロミさんは、ホストみたいなお店しか受からなかったと当時を振り返り、電話の問い合わせで受かった歌舞伎町のホストクラブで働くことになります。
そのお店は、ダンスや歌など特技を披露できるようなスペースがあるお店だったそうです。
そこでのヒロミさんはひとりで漫談をやっていたらそれが好評だったそうで、ホストの立場では「お客さんから指名されることが重要なのに、付くことをしないのにナンバーワン」だった、とトーク中心の営業で店のスターになったといいます。
そのような人気ぶりから、お客さんの女性より「面白いから芸能界入りした方がいい」と勧められ、そこから芸能界入りへの展開が進んでいったといいます。
ちなみに、初めて披露したネタは八王子漫談だったそうです。
ヒロミさんは、漫談がウケて楽しかったので「ずっとホストでもいいかも」と当時思っていたと語ります。
もともとお笑いの才能があったと思わせるエピソードですね。
警備員
ヒロミさんは、数年前にテレビ番組のゲスト出演時に、高校時代のアルバイトの話をされています。
実は、高校時代は歌手・松田聖子さんの大ファンでコンサートスタッフのアルバイトをしていたそうです。
「後ろで聖子ちゃんが歌ってるから見た。警備にならない」と、ヒロミさんがコメントされているので、公演中、ファンなどがステージに上がらないように見守りを行う警備を担当されていたのでしょう。
公演中にステージに背を向けて客席を見回すスタッフの場合は、ステージが後ろになり憧れの松田聖子さんは全く観ることができないことになりますね。
やんちゃなイメージがあるヒロミさんが、バイト仕事を忘れてしまうほど、「昭和のアイドル」に魅了されていた時代があったとは、ほっこりしますね。
ヒロミがお笑い芸人になったきっかけ
1986年、ヒロミさんはお笑い芸人で芸能界入りを果たします。
そこらの活躍は、芸人だけにとどまらず、MCの番組や冠番組を任される程の人気者になっていきます。
更には、若手芸人の立場であるにもかかわらず、大物芸能人にも容赦ない言動で強烈なツッコミを行うスタイルで注目を浴びてきました。
そんな大胆な芸風のお笑い芸人になったきっかけを調べてみました。
①事故で生死をさまよった
ヒロミさんが、元暴走族だったということは有名です。
当時インタビューを受けた週刊誌には九死に一生をえた交通事故について語られていました。
暴走族とは、1970年から1980年代にかけて大きく社会問題化。
オートバイを乗り回し、騒音をまき散らしたり無謀な運転をしたりして交通の危険を生じさせる行為を行う集団と示されています。
ヒロミさんは、中・高校時代は暴走族「八王子スペクター」の一員として、八王子を拠点に活動していました。
もともとは、ヒロミさんの兄が不良だった影響を受け、高校生になると夜ごとバイクを乗り回す日々をおくります。
②母親から言われた言葉で決意
青春時代を暴走族として謳歌していたヒロミさんは、18歳の時友人2人を乗せ時速130キロで走行。
当時雨降る山道でコントロールを失い、スピン。
ガードレールの向こう側、3メートル下の田んぼに突っ込んだとヒロミさんの著書にあります。
結果、一緒に乗っていた二人は足の骨折で済んだようでしたが、ヒロミさんは内臓破裂の重体で緊急搬送され、家族は医者から諦めるよう言われたとか。
それでも、家族は手術を懇願。
それから長時間に及ぶ難しい手術を受け、奇跡的に一命をとりとめたそうです。
大事故で生死の境をさまよったヒロミさんは、母親から「あなたは長生きできないかもしれないから、好きな事をしなさい」と言われ、自身も「好きなことをしよう」と決めたといいます。
③自分でもやれると確信した
入院中はゆっくりテレビを観る機会が多くあるので、大御所の芸人さんがテレビでしゃべっているのを見て「本当に面白いな」と普段観ることがなかったバラエティー番組を楽しんでいたそうです。
そして「俺もテレビに出してもらえればしゃべれるのに」なんて素人ながらに思っていたそうです。
その時に、自分でもやれると確信し、お笑い芸人になる事を決意したと話されています。
コントグループB21スペシャルを結成
ヒロミさんが芸能界デビュー以前に勤めていたホストクラブ。
そこでのひとり漫談から、本格的に芸能界入りの展開が進んでいく過程についても確認していきましょう。
1986年に「B21スペシャル(びーにじゅういちスペシャル)」と命名されたお笑いトリオで、ヒロミさんは芸人としてデビューします。
ヒロミさんの他にデビット伊東さん、ミスターちんさんからなるメンバーで結成されました。
ルックスのいいメンバーを口説き落とした
アルバイト先のホストクラブで3人は出会いました。
ルックスの良いアイドル志望のデビットさんと、ミュージカル役者&ダンサー志望だったちんさんに声を掛け、お笑いでの芸能界入りを誘ったそうです。
当時は歌舞伎町で働いた後、朝方怖い人たちに追っかけられたりという経験もしながら、3人でコントの練習をするという日々だったと、トリオメンバーのひとりデビット伊東さんの記録がありました。
下積み時代は、歌舞伎町から六本木の「バナナパワー」というショーパブへ移り、酔客を相手にコントを披露して、腕を磨いていたとも記録が残っています。
暴走族でやんちゃなヒロミさんも芸を磨く努力をされていたのですね。
差別化を図るために衣装にこだわった
オシャレ感のない当時の若手芸人らとの差別化を図るため、衣装はDCブランドにしようというのもヒロミさんの発案によるものであったそうです。
確かに、今も昔も若手お笑い芸人は稽古しながら、アルバイトで生計を立て下積み時代を経験し、ブレイク後に芸人として収入が発生するイメージですよね。
当時の一般的なDCブランドの価格帯が、スーツ一着あたり5万円台から。
そして有名ブランドでは8万円台の品物となっていたようです。
デビュー前のヒロミさんも経験したように若手芸人の収入源は主にバイト。
バイト代が10割といっても差し支えない若手芸人生活の中、当時ヒロミさんの発案でDCブランドスーツを揃えてデビューしたわけですから、差別化は大成功だったと言えるでしょう。
現在のお笑い芸人さんたちもスーツ姿が多い印象ですが、ビシッと整えたスーツに身を包みながらふざけたことを言う。
そのギャップが面白さをより引き立てているのではと思います。
大火傷で生死をさまよう
コントグループ「B21スペシャル」は、芸能界に入ると瞬く間にブレイクし、お茶の間の人気者になりました。
ヒロミさんが26歳のころ、レギュラー出演していた深夜のバラエティー番組で事故が起きてしまいます。
内容は、ロケット花火を背負って宇宙に行くという無謀な企画で、ヒロミさんが大量のロケット花火を背負い、人間ロケットとして初挑戦する内容でした。
結局、花火が引火しヒロミさんは全治4週間の大やけどを負います。
当時は、ほとんどのテレビ局がニュースで取り上げる程の大惨事だったといいます。
撮影スタッフが避難してしまうほどの火の勢いとなり、現場が大混乱している様子は動画を検索すれば視聴できます。
芸能界に入る前、18歳のときにバイク事故。
そして、26歳のときにテレビ番組のロケで大怪我。
どちらも生還されていることからヒロミさんは強運の持ち主なのでしょう。
お笑い第三世代を牽引していた
お笑い第三世代は、1980年代から1990年代にかけてデビューした芸人を指します。
代表的な第三世代の芸人には、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、ナインティナイン、とんねるず、ネプチューン、おぎやはぎ、東野幸治、藤井隆などがいらっしゃいます。
第三世代の名だたる顔ぶれをみてわかるように老若男女問わずファンが多く、そして現在も多岐にわたる分野で活躍している方々です。
その大物芸人さんと同じ時代を過ごしてきたB21スペシャルの活躍を確認していきましょう。
ダウンタウンやウッチャンナンチャンと肩を並べる人気
当時、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、B21スペシャルの3組の持ち回りでレギュラーの入れ替えが行われる番組が多くあったそうです。
その実績だけでも、一躍、西のダウンタウン、東のウッチャンナンチャンと並ぶ人気お笑いグループと言えるのではないでしょうか。
メディアでなどで、お互いライバル視して交流は無かったのではないかと尋ねられるも、ヒロミはさんは「全然そうでもなかった。一緒に番組もやってたし、飯も行ってた」と吐露されています。
加えて、関東と関西という分け方をして気を使っていただけで、周囲が過敏になりすぎていただけだとも。
その様に扱われたのは、B21スペシャルがダウンタウンやウッチャンナンチャンとも引けを取らない実力、そして勝るに劣らない人気があったからなのではと思います。
歌手や映画デビューを果たす
お笑い芸人と言えば、ネタやトークで人を笑わせることが職業ですが、それだけに限らず多才な芸人さんは俳優や歌手、作家など様々な分野での活躍は珍しくありません。
B21スペシャルもデビューから5年経った1991年には、歌手として「お世話になりました」をリリース。
こちらは、80年代の歌番組の司会で有名な井上順さんのカバー曲となりますが、B21 スペシャル以降にもJ-POP有名アーティスト達にカバーされ、一度は聞いたことがある昭和のヒット曲です。
そして、同年映画「ふざけろ! 」でスクリーンデビューをしています。
主演B21スペシャル、脇の俳優陣が豪華なコメディ映画となっており、メインビジュアルにインパクトがあるのでクスっと笑ってしまいます。
その後は、ヒロミさんはピンでのお仕事として脇役で映画に出演。
後に奥様となる松本伊代さんも出演されている映画「中指姫 俺たちゃどうなる?(1993年)」や「30 – thirty -(1997年)」などに出演を果たし、豪華俳優陣と共に並び活躍の場を広げていきます。
プロデューサーをいじって仕事を獲得していた
2016年ラジオ番組内でデビュー当時の頃について話されていました。
「前説やったり、打ち上げの司会やったりして、こういう時に偉そうなプロデューサーとかをいじって笑いをとって「お前おもしれな」って、テレビではないところで勝ちとる!」ヒロミさんは、そんな方法がすごく挑戦的で好きだったそうです。
ヒロミさん率いるB21スペシャルは、本番でもそうでないところでも全力で笑いをとり、レギュラー番組を勝ち取り芸能界でのし上がってきたようです。
20代からは生き急いだ
八王子出身のヤンキーの兄ちゃんが芸能界で成功、その後アイドルと結婚。
そして、そこそこの下積み時代でデビューしてから約20年くらいまではマスメディアから名前が消えることが無かったヒロミさん。
そんな順風満帆に見えたヒロミさんですが、実は、命を急いで終えようとするかのような生き方をしていたとか。
そして、前のめりで生きるスタイルを変えないまま、2004年以降は芸能界から離れマスメディアからヒロミさんの姿が一切見えなくなります。
その詳細をみていきましょう。
事故の影響から「命」を意識し焦っていた
ヒロミさんのお腹には30㎝の手術痕が残っています。
それは、18歳で起こした交通事故での脾臓摘出の傷跡。
奇跡的に助かったものの、その事故以来「俺の人生の時間は、人よりも短いんじゃないか?」という意識を持つようになり、そこからは生き急いで過ごしていたといいます。
例えば、収録は午後から始まることが多いので午前中は釣り、水遊び、ゴルフ、クレー射撃など朝は趣味や遊びに行く日々。
そのような過ごし方を知っている周りから「仕事前によくやるね」と呆れられていたほど、ヒロミさん自身は24時間しかない時間をどう有効に使うかを真剣に考えていたといいます。
レギュラー番組もいくつも持ち、20代後半には独立し社長業。
芸能界で売れていきたい!やりたい遊びはあれもこれもやっておきたい!全てに対してやり切りたいと、常に考え働いた結果、30歳になる頃には最高月収が6000万円のタレント兼実業家としてのヒロミさんが確立されていきました。
周囲に200%を求めていた
「テレビに出ている人たちは人一倍前に出たいという意志を持っている、だからこそどんなときも200%で立ち向かう、そうしなければ上には行けないし結果は出せない」と、強く信じていたヒロミさん。
短い人生で結果を出していくんだという意識のヒロミさんは、仕事に対して100%は当然、200%全力を出す自分と、そうじゃない周囲の人たちを比べて苛立ちと仕事に対する熱量の違いに不思議さを感じるようになったそうです。
社会人となり様々な人と一緒に仕事をしていると、時には温度差を感じることはあります。
全員が同じようにやる気にあふれていることは少なくて、やる気に燃えている人もいれば、さっぱりやる気を感じない人もいますよね。
実際に、短い期間で結果を出し成功者の立場になったヒロミさんがそのような熱量の違いを感じてしまうのは当然なことだと考えます。
でも、身を置く世界が変わったことで、ヒロミさんは徐々に考え方が変わったといいます。
自身が経営している会社のオーナーとして従業員の立場を考えた時、個々人皆が200%どころか100%の熱量が当然である必要はなく、お互いに補うこともあり、甘えもあり、許しもあり、支え合っていくから全てがうまく回っていく、それがベストだと。
人を雇う側になったことで周りと歩調を合わせ理解する自身へ変化したそうです。
自身の成功体験に執着せず、柔軟な考えができるヒロミさんはやはり人間力がある方なのだなと感じます。
自らの意思で芸能界との距離を置いた
2004年以降メディアからは姿を消し、2014年から再び芸能界に姿を見せるようになったヒロミさん。
芸能界での活動を10年間休業していた理由について、当時は様々な憶測が飛びかっていました。
「大御所芸能人を怒らせたから?」
「後輩へのパワーハラスメントがあった?」
「スタッフと揉めたから?」
本格復帰した後もその理由を揶揄されつつも、ご自身の著書や各メディア媒体などで、丁寧にそして笑いを誘いながら回答されています。
休業した決定時な理由として、当時出番が無くなっていく状況の中、世間やスポンサーから「ヒロミ」が求められなくなっていることを強く感じたと語ります。
40代後半にして人生初めての大きな挫折感。
そして、ヒロミさんは求められていない芸能界にあがいてしがみついて過ごす道ではなく、自分の意志で線を引くことを選んだと書き記されています。
再ブレイクを果たして約10年。
昔と変わらず大活躍されているという事実は、休んで、遊んで、考えた10年間はヒロミさんにとって次なるステージに向けての充電期間になったのだと感じました。
世間の声
まとめ
今回はヒロミさんの波瀾万丈な人生について調べてみました!
- 10代に生死の境をさまよう大事故を経験、芸能界入りするきっかけになった
- 芸能界デビュー後はとんとん拍子にお笑い界で人気を博した
- 20代に2度目の生死の境をさまよう大火傷を負い、その話題で交際がバレてアイドル松本伊代さんと結婚
- 生き急ぐ生き方が変えられず、生きづらくなってしまい芸能界の仕事を休業
- 休業中は実業家としても手腕を発揮
- 2014年、再び芸能界へ返り咲き求められるタレントとして活躍中
人は人生の転機や成長する時には痛みが伴うもの、それをヒロミさんのエピソードで感じました。
「自分のために頑張る」フェーズから、求められる場で役に立ち、後輩たちの後押しになれればと「周りの人を引き立たせる」立ち位置へ変化したヒロミさん。
今回、ヒロミさんの姿を通して感じたのは、昭和という時代には自分が先頭に立って引っ張っていくリーダーが必要だった。
でも、今世の中で求められる人というのは、価値観の多様化が進み、周りの人を認め輝かせることができるリーダー像なのかもしれません。
最後に、ヒロミさんの再ブレイクの陰には、妻の松本伊代さんが自分と関わったテレビ関係者に声をかけ、水面下でヒロミさんを売り込んでいたエピソードも知りました。
周りの人たちに愛されているヒロミさんの魅力をこれからも注目していきたいです。