法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県にある世界遺産の仏教施設です。
修学旅行では定番の観光地ですよね。
しかし、「飛鳥時代に聖徳太子が建てたお寺」であること以外は詳しく知らない方も多いのではないでしょうか?
法隆寺の成り立ちや、その歴史について紹介していきます。
目次
法隆寺を建てたのは聖徳太子
法隆寺は7世紀に聖徳太子によって創建された仏教施設です。
聖徳太子は574年に用明天皇の第二皇子として生まれました。
聖徳太子という呼び名は後世につけられたもので、実は本名は分かっていないのです。
厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)と言われることもありますが、この呼び名も当時の文献には残っていません。
593年に聖徳太子は推古天皇の摂政となり、蘇我氏とともに天皇中心の中央集権国家を作るために動きます。
そのために聖徳太子は「十七条の憲法」を定めますが、それは仏教の考え方を取り入れたものでした。
その条文で、聖徳太子は「三宝」を篤く敬うように述べています。
三宝とは、仏・法・僧という仏教において最も大切にしているもののことを言います。
- 「仏」とは、悟りを開いた仏のこと
- 「法」とは、仏が説いた教えのこと
- 「僧」とは、法に従って生きるもの
聖徳太子は、仏教の教えに基づいた国づくりを行なっていたことが分かりますね。
父のために建てた
聖徳太子は病に伏した父・用明天皇の回復を願って法隆寺を建てたと伝えられています。
仏教が日本に伝わったのは6世紀初めのことです。
用明天皇が国として仏教を公認して、人々に仏教の教えを広めた人物と言われています。
息子である聖徳太子も幼い頃から仏教を信仰していました。
聖徳太子は物部氏との戦勝祈願ために、仏教の四天王像を作り、実際に物部氏の討伐に成功しています。
そんな中、用明天皇は天然痘を患ってしまいます。
用明天皇は自らの病の回復を願って、聖徳太子にお寺と薬師如来を作ってほしいと伝えますが、法隆寺の完成前に用明天皇は息を引き取りました。
そのため、法隆寺は亡き父を供養する寺となったのです。
法隆寺の歴史と全貌
約1400年前に創建された法隆寺には、長い歴史の間にさまざまな出来事がありました。
斑鳩寺が法隆寺の元の名前
法隆寺は斑鳩寺(いかるがでら)という別名があります。
実は、創建当初は斑鳩寺と呼ばれていました。
法隆寺は奈良県生駒郡斑鳩町というところにあります。
601年、聖徳太子はこの地に斑鳩宮(いかるがのみや)を造営しました。
当時の法隆寺は斑鳩宮の隣に建てられたお寺なので「斑鳩寺」という名称になったのです。
法隆寺という名称が初めて文献に登場するのは670年のことです。
なぜ斑鳩寺と呼ばれなくなってしまったのでしょうか?
622年に聖徳太子が亡くなった後、聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)の一族が斑鳩宮で暮らしていました。
しかし、643年に蘇我入鹿によって斑鳩宮は焼き払われてしまい、山背大兄王一族も斑鳩寺で自決してしまいました。
これで聖徳太子の一族の血は途絶えてしまったのです。
おそらく、聖徳太子の一族を滅ぼした者たちは、聖徳太子一族を連想させる「斑鳩」という呼び方を使いたくなかったので名称を変えたのではないでしょうか。
しかし、「法隆寺」という名称の由来は未だ分かっていません。
法隆寺には本当に謎が多いのです。
建てられたのは607年という説が濃厚
607年に法隆寺が建てられたという説が濃厚です。
その根拠となっているのが、『顕真得業口訣抄』『古今目録抄』などの文献にある「推古2年起工15年完成」という文章です。
推古2年(594年)から建築を始め、推古15年(607年)に完成したということになります。
しかし、『興福寺年代記』による推古7年説(599年)や、『興福寺略年代記』による推古21年説(613年)など諸説あります。
いずれにしても法隆寺金堂の釈迦如来三尊像が623年に造像されているため、それより古いことは間違いないでしょう。
全焼して再建された過去
現存している法隆寺は、火災で消失した後に再建されたものと言われています。
明治時代の半ばまで、法隆寺の建物は聖徳太子が創建した建物がそのまま残っていると伝わっていました。
しかし、『日本書紀』に670年に法隆寺が全焼したと書かれていたため、現存している建物は再建されたものであるという意見が出たのです。
平安時代の文献では法隆寺は和銅年間(708年〜715年)に立てられたとあり、法隆寺中門の仁王像も711年に作られたものであることから、少なくとも8世紀初頭には再建された可能性が高いでしょう。
再建を否定する意見もあります。
近年の研究で、法隆寺五重塔の心柱の木材の伐採年代が660年〜670年であることが分かりました。
そのため、『日本書紀』で全焼と言っているのは正しくない可能性があるのです。
火災そのものがなかった、または火災はあったが全焼はしてないことが考えられます。
法隆寺の再建についてはさまざまな意見があり、今でも研究が進められています。
未だ分からないことが多いのも、人々が法隆寺に惹きつけられる理由かもしれませんね。
世界遺産に登録中
1993年、法隆寺は同じ地域にある法起寺(ほっきじ)とともに、「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコ世界遺産に登録されました。
日本で最初に登録された世界遺産の1つであり、姫路城・屋久島・白神山地と同時です。
法隆寺が世界遺産に登録された理由は次のとおりです。
- 世界最古の木造建築物であるため
- 日本と大陸の文化交流を知ることができるため
- 仏教伝来初期の建造物であり、後世の仏教建造物に影響を与えたため
法隆寺の五重塔は、塔の中心を通る心柱をあえて揺れる構造にすることで、地震の際の揺れを吸収する仕組みになっています。
心柱だけでなく、各階も互い違いに揺れるという二重の耐震構造なのです。
飛鳥時代の建造物とは思えない、考え抜かれた構造ですよね。
この仕組みは東京スカイツリーにも使われているそうです。
法隆寺では建築物以外にも、国宝「釈迦三尊像」「薬師如来坐像」「四天王立像」「毘沙門天・吉祥天立像」や、重要文化財「阿弥陀三尊像」など貴重な文化財を見ることができます。
なかでも、法隆寺夢殿にある国宝「救世観音像」は聖徳太子がモデルと伝えられています。
夢殿の中で700年近く人目に触れることのなかった仏像で、現在でも毎年春と秋に行われる特別開帳でしか見ることができない秘仏です。
私は偶然にも特別開帳の時期に行ったため、この救世観音像を見たことはとても印象に残りました。
一体どのような顔をしているのか、気になる方はぜひ特別開帳に合わせて足を運んでみてください。
世間の声
まとめ
法隆寺とそれを建てた聖徳太子についてまとめてみました。
- 法隆寺は聖徳太子によって建てられた仏教施設
- 聖徳太子の父・用明天皇の病の回復と供養のために建てられた
- 過去には斑鳩寺と呼ばれていて、理由は斑鳩宮の隣に建てられたお寺であったため
- 607年に建てられたと言われているが、諸説あり
- 670年に火災で全焼し、現存する法隆寺は再建されたものと言われている
- 日本で最初の世界遺産の1つである
法隆寺には、ぜひ歴史や当時の時代背景が分かった上で行ってみてください。
きっと見るものすべてに感動できることでしょう。