三国志における超重要人物の一人、劉備玄徳。
関羽や孔明といった優れた臣下たちから支持されていたことから、本人も非常に有能な人物だというイメージがありますよね。
そんな劉備玄徳ですが、実はその子孫の中には無能な人間もいたのでしょうか。
彼の3人の息子について調べてまとめてみました。
家系図
前漢の初代皇帝である劉邦から家系が始まっています。
中山王・劉勝の末裔が劉備です。(家系図左下)
劉備玄徳の子孫まとめ
劉備には、劉禅・劉永・劉理という3人の息子がいました。
順番に見ていきましょう。
劉禅(りゅうぜん)
劉禅は劉備玄徳の長男で、劉備玄徳が亡くなった後、蜀の第2代皇帝となった人物です。
彼は「無能」「暗君」「暗愚」といった不名誉な評価を受けています。
劉禅は17歳で即位したのち、実権を臣下に明け渡し、自分は40年の即位期間でほとんど政治に関与しませんでした。
臣下の言いなりとなった彼は、政治の腐敗、国力の低下を防ぐことができず、最終的に大国である魏に攻められあっさりと降伏、蜀は滅亡します。
その後、宴会の席で魏の将軍に「蜀が恋しくないか」と聞かれた際「蜀を思い出すことはない」と答え、周囲の人間を唖然とさせたという逸話もあります。
こういったエピソードを見ると、確かに無能とされるのも頷けますが、本当にそうなのでしょうか?
劉禅が即位した時には、まだ孔明は存命中で、彼が政治を安定させていました。
孔明の死後も、しばらくの間は有能な臣下が多くいたため、若く経験のない劉禅が政治を執り行うより合理的だったと言えます。
早い段階で降伏したのも、敗色濃厚の中で、いたずらに兵や民を犠牲にせずに済んだと捉えることもできますよね。
また、40年という即位期間は、実は同時代のほかの皇帝たちの中で最長なのです。
まったくの無能だったとしたら、これだけの期間皇帝の座を守り続けることはできなかったのではないでしょうか。
このように劉禅は、有能ではないが無能というほどでもない、というのが正しい評価かもしれません。
劉永(りゅうえい)
劉永は劉備玄徳の二男として生まれました。劉禅とは異母兄弟にあたります。
結論から言うと、劉永は無能ではありません。
劉永は、劉禅の寵愛を受けていた黄皓(こうこう)という臣下と対立していました。
それが原因で劉禅との関係が悪化し、10年に渡り朝廷への参内を禁じられてしまいます。
一方、黄皓は権力を悪用して私腹を肥やし、政治を腐敗させます。
さらには、魏が攻めてきた際、援軍を送らないよう劉禅に助言するなど、蜀の滅亡に大きな影響を与えました。
そんな黄皓の危険性を見抜いていたと考えれば、劉永は有能といえるのではないでしょうか。
ちなみに、劉備玄徳の子孫は後の内乱でほとんど殺されてしまうのですが、劉永の孫である劉玄(りゅうげん)だけが生き残り、その血統を繋いだそうです。
劉理(りゅうり)
劉理は劉備玄徳の三男です。劉永と同じく、劉禅とは異母兄弟の関係です。
劉理に関しては、有能・無能の評価は難しいかもしれません。
なぜなら、劉理は病気のため、若くして亡くなっているからです。
また、彼の息子、さらには孫までもが、短命でその人生を終えてしまっているのです。
これには劉禅も同情したそうです。
以上のことから、劉理を有能・無能で区別すること自体が無粋でしょう。ここはノーカウントとします。
世間の声
まとめ
いかがだったでしょうか。
三国志を語るうえで外せない存在、劉備玄徳の子孫の中に無能な人間がいたのかどうか、3人の息子を調べてまとめました。
結果は以下の通りです。
・長男の劉禅は、無能と評価されることが多いが、同時代で最も長い期間皇帝の座を守るなど、まったくの無能というほどではない。
・二男の劉永は、後に蜀滅亡の一因となる黄皓と対立するなど、有能といえる。
・三男の劉理は、若くして病死してしまっているため、有能・無能で評価するのは難しい。
超がつくほどの有名人で、いかにも有能そうな父、劉備玄徳と比較すると、その息子たちは少し地味な印象を受けてしまいますね。
とはいえ、当時は戦争の時代。歴史に残っていないだけで、実は優れた才能を持っていたのかもしれません。(例えば歌がめちゃくちゃ上手かったとか)
そんな想像を膨らませるのも、歴史の楽しみ方の一つではないでしょうか。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。