伝説のコントグループであるザ・ドリフターズのメンバーにして、51年もの間芸能界の最前線で戦われた国民的タレントである志村けんさん。
2021年に他界された報道が出た時は、全国民を震撼させました。
しかし、実は志村けんさんはまだ生きているのでは?という説が浮上している為、その噂が立った理由を徹底検証していきます。
プロフィール
- 名前 志村 けん
- 本名 志村 康徳
- グループ名 ザ・ドリフターズ
- 芸歴 51年
- 生年月日 1950/02/20
- 没年月日 2020/03/29
- 年齢 70歳没
- 所属オフィス イザワオフィス
以上が、志村けんさんのプロフィールになります。
ちなみに、「けん」というのは、お父様の名前である「憲司」の憲を借りたようです。
子供のころから人を笑わせるのが好きだった
志村けんさんは、1950年に東京都で末っ子として誕生しました。
子供の頃から落語や漫才、何よりもテレビが大好きでとても明るい子供だったそうです。
それゆえに、学生時代は文化祭でコントなどを披露していたようなので、学校では人気者でした。
厳格な父で笑いのない家庭で育った
そんな志村けんさんの性格とは裏腹に、育った環境は笑いのない家庭だったと言われています。
父の憲司さんが、小学校の教師を勤められており、柔道五段を持っているなどかなり寡黙で厳格な人柄でした。
なので、家庭内では緊張感のある雰囲気が張り詰めていたようです。
そんな父親が、テレビで漫才などを見たときに声を出して笑う瞬間があったため、父親を笑かすことができるお笑いの世界を志すようになりました。
いかりや長介の弟子入りは高校卒業直前
志村けんさんが18歳の時に、ザ・ドリフターズは既に世間の人気を博していました。
ザ・ドリフターズのいかりや長介さんの弟子入りを決めた志村さんは、当時の雑誌で調べた住所を頼りにいかりやさんを訪問し、雪が降りしきる中12時間も待ち続けたそうです。
後日、後楽園ホールに呼び出された志村さんは、高校を卒業する前からいかりやさんの付き人となりました。
志村けんは生きてる理由(噂話)
冒頭でも述べた通り、志村けんさんは2020年の3月に他界されました。
しかし、実は生きているのではという噂が立ったのはなぜなのでしょうか?
大きく3つの理由を紹介します。
理由①誰も亡骸と対面していないから
1つ目の理由は、誰も死に目に会えていないからです。
当時の情勢として、亡くなった方のお葬式は蔓延防止の面から、非常に厳重な体制をとっていました。
そのため、遺族の方も含め、志村さんのご遺体を確認できた方はいません。
誰も志村さんの死に目に会えていない状況から、この説が浮上したと言われています。
理由②家族にも病状が伝えられなかったから
上の理由とも、通じるところがあるのですが、ご遺族の方も含めて志村さんの死に目に会えた方はいません。
未曾有の感染症が広がる影響を鑑みてのことではあるのですが、家族の方でさえも、志村さんの病状がはっきりと伝えられないまま亡くなってしまったと言われています。
そのため、曖昧な所が多すぎる面からこの説が出ました。
理由③お気に入りの女性と海外で遊んでいる説があるから
2つ目の理由として、お気に入りの女性と海外で遊んでいるのではないかという噂が立っています。
志村けんさんは、芸能界でも随一とも言えるほどに女性との関係が多く噂が立つほどのモテ男です。
なので、死を偽装して芸能界を退き、悠々自適にお気に入りの女性と国外で遊んでいるのではないかという噂が立ちました。
芸能界デビューまでの流れ
志村けんさんは、22歳の時に「マックボンボン」というコンビで芸能界デビューすることとなりました。
しかし、それまでに波乱の展開があったようなので順に紹介していきます。
由利徹から弟子入りを断られる
志村さんは、最初に弟子入りを懇願したのが、当時お笑いユニット・喜劇役者として活躍していた通称「昭和の爆笑王」とも言われる由利徹さんです。
しかし、由利徹さんはその時点で既に弟子を数人抱えていたため、弟子入りを断られる結果となりました。
脱走
上記で書いた通り、志村けんさんは、ドリフターズのリーダーであるいかりや長介さんに弟子入りすることとなりました。
それから、いかりや長介さんの付き人として頑張っていたものの、高校を出てすぐにお笑いの業界に入ったため、世の中の事を何も知らないという漠然とした不安があったようです。
そのため、いかりやさんに世の中を知るために他の仕事を経験してみたいため「1年後に帰ってくる」と言い残し、ドリフから「脱走」しました。
ドリフターズ正式メンバーへ
志村けんさんがいない1年の間、『全員集合』視聴率が30〜40%をキープするなど大ブレイクしていて、急に戻った所でいきなりドリフに加入できるような状況ではありませんでした。
しかし、当時のドリフターズのメンバーである荒井注さんが「体力の限界」を理由に引退を発表しました。
絶対的な5人が欠けてこれからどうしようという所で、志村さんが『全員集合』に穴埋めする形で出演し始め、ドリフターズに正式に加入することとなりました。
2020年3月29日他界
志村けんさんは、2020年3月29日にお亡くなりになりました。
このニュースは、番組のキャスターでさえも「えっ、嘘!」とリアルタイムで声を漏らしてしまう程に衝撃的すぎて、日本中を絶望に陥れました。
志村さんはなぜ亡くなってしまったのでしょうか、、、
死因は当時流行った感染症
一般的に報道されている理由としては、当時流行った感染症が死因だとされています。
当時は、緊急事態宣言が頻繁に発令されるなど、国民としてもどう対策すればいいかが全く分からない状況でした。
また、感染症についてもそこまでの情報が無かった中で、志村さん自身が罹っている事を知らないまま亡くなってしまったと言われています。
入院した時には重度の肺炎だった
志村けんさんは、搬送された病院で重度の肺炎との診断を受けました。
原因としては、超過密なスケジュールだと言われています。
志村さんは、当時3時間半の舞台公演を1日に複数回行い、2週間以上休みの無いスケジュールをこなしていたので、免疫機能が低下し体調に異変が生じました。
入院後わずか2週間で他界
当初は、重度の肺炎との診断を受けたのですが、4日後に検査をした際には流行りの感染症診断で陽性反応が出ました。
そこから、人工心肺機能を使用するなどの治療を続けたのですが、わずか2週間で亡くなりました。
病状が急激に悪化した理由
当時、感染症は無症状と重度の症状の2パターンに分かれるとの説がありましたが、志村さんの症状はなぜ重症化してしまったのでしょうか。
ヘビースモーカーだった
志村さんは、1日に3箱吸うなどかなりのヘビースモーカーだったのが一因として挙げられます。
WHOのテドロス事務局長は、「喫煙は感染時に重症化しやすくする」との声明を出しているので、煙草が関係していると言えます。
肺炎の既往があった
志村さんは、2016年に肺炎を患っていました。
一応入院はされたものの、車椅子で点滴をしながら当時の舞台の出演を続けた結果、状況が悪化しドクターストップとなりました。
すでに重病を患っていた
志村さんが、肺炎を患っていたのは事実なのですが、他にも重病を患っていたのではないかとされています。
その理由としては、飲酒頻度と夜遊びです。
志村さんは、365日ほぼ毎日お酒を飲んでいるほどの酒好きであり、また、仕事終わりは朝6時まで遊んでそのまま仕事に行くなどの生活を繰り返していたそうです。
若い年齢であれば大丈夫だったかもしれないのですが、志村けんさんは60歳を超えていたので、他の大病を患っていたのでは?とされています。
病状が急激に悪化した理由
感染症について当時わかっていたこととしては、「持病を持っていると重症化リスクが高まる」という説です。
8割の方は、無症状あるいは軽傷で済むのですが、一部の方は呼吸困難などの症状を併発することが例として上がっていました。
志村さんは、肺炎とはまた別の病気も患っていた可能性があることから、重症化リスクが高まってしまったというのが有力な説となります。
世間の声
まとめ
今回は、志村けんさんは実は生きている説を徹底検証しました。
-
厳格な父親が唯一お笑いを見ている時だけは笑うので、それがきっかけでお笑いの世界を志した。
-
最初は、由利徹さんに弟子入りをお願いしたものの断られた。
-
高校卒業後にいかりや長介さんの元へ赴き、弟子入りを懇願し付き人となった。
-
卒業した後に、すぐにお笑いの世界に入ったため、世間を知らないことに漠然とした不安を抱えていた。そのため、「1年で戻る」と言い残し付き人から脱走したことがある。
-
実はすぐにドリフターズに正式加入できたわけではなく、荒井注さんの穴を埋めるポジションとして加入した。
-
志村さんが生きているのではないかと噂されている理由は、誰も亡骸を見ていないから・お気に入りの女性と海外で遊んでいる・家族でさえも病状を伝えられなかったからなどの説があるから。
-
感染病が重症化した理由として挙げられるのは、夜遊びとハードワークで持病を患っていたのが一因として考えられる
以上が簡単なまとめとなります。
国民的な人気タレントとして一線を走り続けた志村さんの訃報は、現在においても生きている説が浮上するほどに受け入れ難い事実でした。
ドリフターズのメンバーの方々は勿論のことですが、上島竜兵さんやその他志村さんにお世話になった芸能関係者にも衝撃が走ったことでしょう。
どうか、天国でもお笑いを続けていてほしいです。