日本の歴史を当たり前のように学校で勉強してきた人なら、聖徳太子のことは絶対に知っていることでしょう。
旧一万円札のモデルになっただけあって、まだ法律の制定が曖昧だった日本に新しい風を吹かせた偉人です。
しかしその反面、多くの謎につつまれているミステリアスな人物でもあります。
今回はそんなちょっと不思議な偉人「聖徳太子」について調べてみました。
目次
理由「聖徳太子の権威に利用価値がなかったから」
一般論として、新興勢力の豪族たちは箔をつけるために名門氏族の名を語ることが多々あります。
しかし、「聖徳太子の末裔」と言うブランドに力がなくなってしまったため、聖徳太子の自称「末裔」を語る豪族は現れることがなかったのです。
日本の新しい歴史を刻む素晴らしい功績を残したのに、なぜそんなことになったのでしょうか。
聖徳太子は両親とも皇族であり、さらに歴代天皇とも血縁の濃い、名門の家系に生まれました。
しかし、さまざまな国政をしき、新しい日本を創った輝かしい功績があるのに、30代になったばかりのまだ若い聖徳太子は政治の世界から身をひき、奈良県の斑鳩に引きこもってしまいます。
突然の朝廷からの孤立に、一体何があったのでしょうか。
太子の死から約20年後、太子の子供で皇位継承者だった山背大兄王らが、蘇我入鹿の襲撃を受けて自決をします。
これで聖徳太子の血は途絶えてしまいました。
つまり、「聖徳太子」の血統を利用することは、若くして朝廷から退いて孤立した皇族、というイメージが先行して、自分達一族のデメリットになってしまう、という考え方になるのです。
だから、自称「聖徳太子の末裔」という人は存在しないということになりました。
そうしたことで、当然現代においても「聖徳太子の末裔」といわれる子孫が誰もいない、ということになっています。
プロフィール
- 出身地:飛鳥(現代の奈良県)
- 職業:政治家
- 生年月日:574年2月7日
- 死亡年月日:622年4月8日(享年48歳)
- 別名:厩戸皇子(うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやどのおう)
- 用明天皇の第二皇子、母親は欽明天皇の皇女
- 推古天皇は彼の叔母にあたる 推古天皇の摂政となり、政治の実権を握る
また、いろいろな伝説もありますが、一番有名なのは「10人が一斉に発した言葉を聞き取ることができる」といったもの。
「日本書紀」では10人の言葉を、と書いてあるが、「聖徳太子伝暦」では太子が11歳の時に36人もの子供の話を聞き分けた、と書かれています。
文献によって、曖昧なところがありますね。
「人の話を理解して聞き分ける、豊かな耳」=「頭が良い」と解釈されて「豊聡耳(とよさとみみ)」という名前が付けられたそうです。
しかし、この名前にちなんで上記のようなエピソードが後付けされた、なんていう説もあるみたいです。
生まれは馬小屋
聖徳太子は生前、厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていました。
なぜかといえば、生まれた場所が馬小屋だったからです。
ちなみに「聖徳太子」という名前は死後に付けられた名前です。
生前に素晴らしい業績を残した人に与えられる「諡(おくりな)」になります。
ある日の夜、太子の母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は夢の中に観音菩薩が現れて「あなたのお腹に宿りたい」と言ったそうです。
その夢をみてすぐに、間人皇女は妊娠をします。
その夢からちょうど1年、間人皇女は馬小屋の前で産気付き、馬小屋の中で出産をします。
そのときに誕生したのが厩戸皇子であり、後の聖徳太子です。
なんか出産のエピソードがイエス・キリストに似てますね。
偉業を残した
歴史の教科書でもお馴染みのように、聖徳太子は黎明期の日本において、重要な政策をたくさん行った人です。
中でも有名な偉業は下記の3つです。
- 遣隋使の派遣
- 冠位十二階の制定
- 十七条憲法の制定
それぞれを簡単に説明をしていきます。
遣隋使の派遣
当時戦乱まったたなかの中国がついに「隋」に統一されました。
そこで聖徳太子は「隋」の国へ向かって日本から使いを派遣します。
それが「遣隋使」です。
日本を属国のように扱う、隋の皇帝に対し「日本は独立国である!」という主張を手紙にしたため、小野妹子に持たせました。
小野妹子もさぞ、大変な旅だったことでしょう。
今でいう中国大使館にいる外交官のようなものですね。
冠位十二階の制定
聖徳太子は天皇に使える役人たちを12段に分けて格付けをしました。
それが「冠位十二階」です。
今までの制度と違う最大のポイントは、聖徳太子がこの制度を定めるまでは、決まった「一族」丸ごとその身分を与えられていました。
しかし、この制度では一族ではなく1人1人「個人」にこの身分が与えられたのです。
つまり、家柄などは関係なく、実力のある人間はこの役職に就くことが可能になりました。
これによって、特定の豪族のところだけに権力が集中することが避けられました。
日本の社会で初めて「能力主義」を実現させたのが、聖徳太子の定めた「冠位十二階」だったのです。
下記のように、帽子の色でその位を表しています。
十七条憲法の制定
この憲法は名前こそ「憲法」となっていますが、これは「冠位十二階」で格付けされた役人たちが、守るべき道徳や思想のことを述べています。
この文章が「十七条憲法」です。
「和を以って貴しとなし」かの有名な文は、十七条憲法の1条です。
日本で最初にできた憲法であり、この「和」こそが日本の中心であり、日本人そのものである、ということを伝えています。
役人に限らず、平民にも伝えたい、日本人のアイデンティティですね。
自殺説が一番濃厚
斑鳩に隠居した聖徳太子は、その17年後に不可解な死を遂げます。
さらに、聖徳太子とその最愛の妃の命日が、たった1日した違いがないことから、暗殺されたのでは?という意見もあります。
「日本書紀」には聖徳太子の死を「2月5日斑鳩にて崩御」という一文しか記されていないのです。
しかし「聖徳太子伝暦」では、また違った見解があります。
『その日太子は妃を呼んで“私は今夜旅立とうと思う。一緒に来るが良い”と告げた。その後沐浴して身を清め、同じ寝床に入り、翌朝に2人の遺体が発見された』と書いてあります。
一説には聖徳太子が世を儚んで自死を選んだ、と言われています。
突然の朝廷との決別、不可解な謎の死、まだまだ私たちが知らない聖徳太子の姿がそこにありました。
世間の声
まとめ
今回は、聖徳太子の子孫が現在、誰もいない衝撃の理由!と出産のエピソード、また聖徳太子の遺した様々な偉業や亡くなり方を調べてみました。
- 豪族たちは「聖徳太子」の血統を名乗ったら、若くして朝廷から退いて孤立した皇族の子孫、というイメージが自分達のデメリットになってしまうため、「聖徳太子の末裔」とは名乗らなかった。
- 太子の母は観音菩薩の予言の夢をみて、その1年後に馬小屋の前で産気付き、馬小屋の中で聖徳太子を出産をした。
- 聖徳太子は遣隋使の派遣、冠位十二階の制定、十七条憲法の制定など、いろいろな制度を制定し、それらは今の日本人のアイデンティティーとなり、礎となった。
- 最愛の妃と自決をしたという説がある。
不思議なエピソードや伝説が多数ある聖徳太子。
しかも、現代では「聖徳太子は存在していなかった」という説も唱えられています。
もし彼が架空の人物だったとしても、やはり十七条憲法などは、素晴らしいことを言っており、彼の言動から学ぶことはたくさんあります。
日本人としてもう一度それらを考え直してみるのも、大切なことかもしれません。