戦国時代に活躍した武将、豊臣秀吉。
織田信長の後を継いで、天下統一を成し遂げました。
そんな豊臣秀吉の子孫は現在、誰もいません。
今回は豊臣秀吉の子孫と、現在子孫がいない理由について深く掘り下げてみましょう。
現在、子孫がいない理由
豊臣秀吉は、幼少期におたふく風邪にかかり、子供が出来づらかったと言われています。
しかし、後に実子をもうけ、3人の実子がいたとされています。
そのうち2人を幼少期に無くし、もう1人の実子の子供も出家しているため、現在子孫はいないとされています。
天下統一をも成し遂げた豊臣秀吉の唯一の誤算は、子供が少なかったということではないでしょうか。
家系図
豊臣秀吉は徳川家康と血縁ではなかったものの、深い繋がりがありました。
徳川家康の妻は豊臣秀吉の妹であり、また、豊臣秀吉の子も徳川家康の孫を妻にしています。
そんな豊臣家も、徳川家によって滅亡させられてしまいます。
また、側室がたくさん居た当時としては、子孫も少ないことが分かります。
過去の子孫まとめ
豊臣秀吉の子孫は現在存在しませんが、過去には直系子孫も存在していました。
過去に存在していた豊臣秀吉の子孫について見ていきましょう。
羽柴(石松丸)秀勝
豊臣秀吉の実子、石松丸。
母親は不明ですが、側室の子であるとされています。
生年も不詳で、1576年10月14日幼少期に亡くなったとされています。
滋賀県長浜市の妙法寺には、羽柴秀勝像とされる6-7歳の男児を描いた肖像画がありましたが、現在は消失して無くなっているそうです。
また、石松丸の死後、織田信長の4男を養子として迎え、「秀勝」と名付けていることもあり、石松丸が豊臣秀吉の実子か非実子かという両方の説が存在しています。
鶴松
1589年7月9日、側室淀殿との間に設けた実子、鶴松。
豊臣秀吉、当時としては高齢の53歳にしての子供でした。
生後4か月で豊臣秀吉の後継者に指名されますが、病弱で病を繰り返し、2歳で亡くなっています。
豊臣秀吉の落胆は、とても大きかったそうです。
秀頼
1593年8月29日、豊臣秀吉が57歳の時に誕生した秀頼。
わずか5歳で豊臣秀吉が亡くなり、家督を継ぎました。
1615年、大坂夏の陣で敗れ、自害しています。
豊臣秀吉は、ずっと子供が出来なかったため、秀頼も実子ではないのではないかと囁かれていたそうです。
豊臣秀吉は、秀頼が誕生した時にはすでに姉の子、秀次を養子として迎え、関白にしていました。
実子が誕生したことにより、秀次が邪魔になった豊臣秀吉は、秀次を切腹させ、さらには秀次の妻や子までも殺してしまったそうです。
秀頼がもっと早く誕生していれば、秀次の運命も違っていたのかもしれませんね。
国松
秀頼の子で、豊臣秀吉の孫にあたる国松。
1608年、秀頼の側室子として生まれます。
大坂夏の陣の時には逃亡しますが、結局捉えられて処刑されてしまいます。
わずか8歳だったそうです。
天秀尼(てんしゅうに)
秀頼の娘、天秀尼。
母は不明で、8歳で出家したとされています。
37歳で亡くなりますが、出家して尼になっていたため、子孫はいませんでした。
求厭(ぐえん)
江戸初期の浄土宗の僧である求厭。
80歳で亡くなりますが、亡くなる直前に「自分は国松の弟である」と告白したそうです。
長く修業を積んだ僧が、死際にそんな嘘をつく理由もないことから、おそらく豊臣秀吉の子孫ではないかと言われています。
しかしまた、求厭も出家していたため子孫はいませんでした。
世間の声
まとめ
天下統一という、大偉業を成し遂げた豊臣秀吉。
そんな豊臣秀吉の子孫をまとめると、下記になります。
- 豊臣秀吉は、幼少期におたふく風邪にかかったことから子供が出来づらかった
- 豊臣秀吉の実子、石松丸は幼少期に亡くなっている
- 豊臣秀吉の実子鶴松は病弱で、2歳で亡くなっている
- 豊臣秀吉の実子、秀頼は大坂夏の陣で自害している
- 豊臣秀吉の孫、国松は処刑されている
- 豊臣秀吉の孫、天秀尼は出家していたため子孫はいない
- 豊臣秀吉の孫、求厭は出家していたため子孫はいない
側室や子が何人もいた時代に、なかなか子供が出来なくやっと出来た子供も幼くして亡くしてしまった豊臣秀吉。
若い時から子宝に恵まれていたら、きっと歴史も変わっていたことでしょう。