渋沢栄一と後妻・伊藤兼子は互いに再婚だった!18歳で家業を継いだ波乱の人生とは?

明治時代の経済界をリードし、「実業家の父」と呼ばれた渋沢栄一さん。

そんな渋沢栄一さんを支えた後妻・渋沢兼子さん。

才覚があり聡明な女性だったと言われています。

今回は、渋沢兼子さんの波乱な人生について迫っていきます!

伊藤兼子とは


出典:https://daddys-life.com

渋沢栄一さんの後妻である渋沢兼子さん。(旧姓、伊藤兼子さん)

伊藤兼子さんはどのような女性だったのでしょうか?

詳しく調べてみました。

 

大富豪の娘

渋沢兼子さんは、伊藤八兵衛さんの次女として誕生しました。

父親である伊藤八兵衛さんは、もともとは質屋の奉公人でしたが、金融業や油の取引する油会所を設立するなど大成功を成し遂げ、『江戸一番の大富豪』となりました。

大富豪の娘であった渋沢兼子さん。

 

ドレスを身にまとった写真からも裕福さが感じられますね。

 

18歳で家業を継いだ

渋沢兼子さんは4姉妹であり、男兄弟はいませんでした。

次女である渋沢兼子さんは「婿養子」をとって、18歳で家業を継ぎました。

本来であれば、長女が家を継ぐイメージですが、渋沢兼子さんの家業に対する強い想いから自ら家業を継ぐという決心をしたようです。

 

渋沢兼子さんは、意志の強く、行動力ある女性だとわかるエピソードです。

 

芸妓の道へ進んだ


出典:https://www.music-tel.com

家業を継いだ渋沢兼子さんですが、父親である伊藤八兵衛さんがアメリカ人商人と始めた共同事業が大失敗。

再起に奮闘する中、父親の伊藤八兵衛さんが死去しています。

 

結局、事業を再起することは出来ませんでした。

当時、渋沢兼子さんはこのように語っています。

実家もない。夫もいない。でも、自分はこうした中でも生きて見せる。

それでも自分の力で生き抜いてみせる。どんないい話でも『妾生活』は断固拒否!

自分の腕で生きていく。芸者?上等じゃあないの

こうして家を救うために離婚し、芸妓の道へ進むのでした。

 

 

渋沢栄一との結婚

芸妓として生きていくことを決めた渋沢兼子さん。

そんな時、夫となる渋沢栄一さんと縁あって出会い、再婚します。

結婚に至るまでを調べてみました。

 

2人の馴れ初め


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芸妓として身を立てるため、置き屋の門をたたいた渋沢兼子さん。

渋沢兼子さんは、芸妓としての仕事を紹介してもらうように、口入れ屋(職業周旋業者)に頼んでいました。

渋沢栄一さんも、コレラで命を落とした前妻・千代さんの代わりに家の手伝いをしてくれる女性を探すように、口入れ屋に頼んでいました。

 

口入れ屋の照会で二人は出会いました。

そして、渋沢家のお手伝いとして渋沢家に住むことになったのです。

 

元々は妾だった

渋沢栄一さんには、多数の妾がいました。

口入れ屋からも、「芸妓にはなれないけど、お妾の話ならばある」と言われていました。

渋沢兼子さんは、妾になることは断固拒否してましたが、結果として渋沢栄一さんの妾となったようです。

 

元妻・千代が関係していた


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渋沢栄一さんは、もともと尾高千代さんという女性と結婚していました。

二人はいとこ同士で幼い頃から親しかったこともあり、結婚しましたが、結婚生活は平穏ではなかったようです。

幕末という時代背景もあり、渋沢栄一さんはパリの万博視察の遂行員として渡仏。

 

離れ離れの生活中も家庭を守った千代さんでしたが、コレラを患って1882年に死去。

伊藤兼子さんと渋沢栄一さんが出会ったのは1883年で、千代さんの亡くなった翌年のことでした。

2人の出会いは、千代さんが引き寄せたものと言ってもいいかもしれませんね。

 

 

9人の子供


出典:https://biz-journal.jp

渋沢栄一さんと兼子さんの夫婦には、9人の子供に恵まれました。

しかし、3人は流産、2人は生まれてすぐに亡くなり、実際には成人したのは男3人、女1人です。

子ども達についても調べてみました。

 

渋沢武之助

渋沢家の三男として誕生した渋沢武之助さん。

高校を卒業後、東京帝国大学法科大学に入学しますが、退学。

その後は、石川島飛行機製作所(現、立飛ホールディングス)の2代目社長、その他数々の会社の取締役や監査役を歴任しました。

 

渋沢正雄

渋沢家の四男である渋沢正雄さん。

 

東京帝国大学法科大学経済科(現、東京大学経済科学部)を卒業後、第一銀行に入行。

ですが、たった2年で退職し、自ら渋沢貿易会社を興します。

しかし、その事業は大失敗に終わり、謹慎を命じられたと言います。

 

その後は東京石川島造船所取締役を就任し、飛行機や自動車製造に尽力。

1929年、石川島自動車製作所(現、いすゞ自動車)を設立し、初代社長に就任しました。

 

渋沢秀雄

渋沢家の五男である渋沢秀雄さん。

東京帝国大学法科大学仏法科(現、東京大学法学部)に進学しますが、本当は文学に興味を持っていました。

一度だけ、父親である渋沢栄一さんに文学の道への移行希望を伝えたそうです。

 

その際、渋沢栄一さんは渋沢秀雄さんにこのように言ったのです。

「今のまま法科を卒業して実業界で働いてもらいたい。

文学や絵画は趣味の程度にとどめておいてくれないか。これは命令ではないよ。

儂(わし)が頼むのだよ。」

こう言われた秀雄さんは、文学を諦めてそのまま法科を卒業します。

卒業後、日本興業銀行(現、みずほ銀行)に入行しますが、銀行の仕事に興味を持てず2年で退職。

 

その後は町を造る会社という点に惹かれ、田園都市株式会社に入社し、のちに取締役に就任。

また、油絵や作家などクリエイターとしても活躍したため、東宝会長になりました。

 

渋沢愛子

渋沢家の三女である渋沢愛子さん。

渋沢愛子さんは、渋沢栄一さんの部下であり、第一銀行の取締役であった明石照男さんと結婚します。

第一銀行の取締役の妻として、夫を支えたようです。

 

 

前夫との関係

18歳で家業を継ぐため、一度結婚していた伊藤兼子さん。

前夫はどんな人だったのでしょうか?

詳細について見ていきましょう。

 

離縁した理由

渋沢兼子さんは家業を継ぐため、結婚して婿養子をもらっています。

しかし、結婚して10年経ったのち、その夫と離縁。

理由は、共同事業に失敗して家業が没落したためだと言われています。

 

離縁した後は、前夫は実家のある近江に帰ったようです。

前夫の情報はほとんどありませんが、実家が近江という事はわかっており、近江商人だったのではないかと推測されます。

 

一人娘がいる

渋沢兼子さんと前夫との間には、一人娘がいたと言われています。

結婚生活は10年間だったので、子供がいてもおかしくないですよね。

渋沢栄一さんと再婚時にも、伊藤兼子さんには連れ子はいませんでした。

 

もしかしたら、前夫が実家に帰るときに一緒に連れ帰ったのかもしれません。

しかし、詳しい子どもの人数や性別など調べてみましたが、正確な情報はわかりませんでした。

 

兼子の妹が娘の可能性

渋沢兼子さんには20歳ほど年の離れた妹、絢さんがいました。

これほど年が離れているため、この絢さんが前夫との間に生まれた娘ではないか?との噂があります。

 

絢さんは、のちに渋沢栄一さんの部下である竹田政智さんと結婚します。

絢さんと竹田政智さんの間には、たけ子さんという娘が生まれ、たけ子さんは渋沢栄一さんと兼子さんの息子である秀雄さんと結婚しました。

もし、絢さんが兼子さんと前夫との間の子どもだったら、かなりの近親婚になります。

 

昔は近親婚も珍しくなかったため可能性もなくはなさそうですが、絢さんが娘の可能性は低そうです。

しかし、はっきりとした真相はわかりませんでした。

 

 

現在も活躍する子孫

渋沢栄一さんには、100名を超える子孫がいると言われています。

現在でも、子孫の方が各界でさまざまな功績を残しています。

詳細について見ていきましょう。

 

鮫島純子


出典:https://prtimes.jp

渋沢栄一さんの孫娘である鮫島純子さん。

エッセイストとして活躍し、数々の著書を出版されています。

今年2023年1月19日、100歳という長寿でこの世を去りました。

 

祖父、渋沢栄一さんと面識ある数少ない子孫であり、自ら「渋沢栄一の肌に触れた希少な人間」と語っています。

 

鮫島弘子


出典:https://business.nikkei.com

渋沢栄一さんの玄孫(やしゃご)である鮫島弘子さん。

鮫島弘子さんは、andu amet(アンドゥ・アメット)の代表取締役兼チーフデザイナーを務めています。

andu amet(アンドゥ・アメット)は、エチオピアの羊皮を使ったバッグや財布を取り扱ったファッションブランドで、エチオピアの経済にも貢献しています。

 

 

世間の声


出典:https://twitter.com


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まとめ

今回は渋沢栄一さんの後妻である伊藤兼子さんについて、調べてみました。

  • 伊藤兼子さんは、江戸一番の大富豪、伊藤八兵衛の娘だった。
  • 婿養子を取り、家業を継ぐも事業が失敗し、家族を守るために芸妓の道を選んだ。
  • 伊藤兼子さんは事業失敗を機に前夫と離縁した。
  • 前夫との間に一人娘がいたとの噂があるが、真相は不明。
  • 渋沢栄一さんと出会い、妾から後妻となった。
  • 渋沢栄一さんと伊藤兼子さんの間には、9人の子どもに恵まれるも成人したのは4人。
  • 渋沢一族は現在も各界で活躍をしている。

夫である渋沢栄一さんは「実業家の父」と呼ばれ、現在でも有名ですが、その陰には妻として支えた伊藤兼子さんの力があったのだと知りました。

現在でこそ女性も仕事をすることは当たり前ですが、江戸時代から明治時代に自ら家業を継ぐと決断した伊藤兼子さんはすごいと思いました。

これからも渋沢一族の活躍を応援していきたいと思います!

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