織田信長の子供は、12人の息子と12人の娘

織田信長の子孫は現在まで続いています

戦国時代から安土桃山時代にわたり活躍した、戦国武将である「織田信長」。

そんな織田信長には確認できただけで、12人の息子と12人の娘が存在していることがわかりました。

今回はそんな織田信長の子供達をご紹介いたします。

 

12人の息子まとめ


出典:https://twitter.com

織田信長の息子は12人いるということが確認できました。

中には母親不明や情報が少ない人物もいますが、1人ずつご紹介いたします。

 

庶長子:織田信正

織田信正(おだのぶまさ)は長男でありながら一般的には、存在が認められていない織田信長の息子です。

理由は、出生の状況が大きく関係しています。

 

母は原田直子(塙直子)で、織田家の重臣である塙直政の妹にあたります。

名士の妹なのですが、原田直子は別の男性と交際している時に、織田信長の子を授かっているので本当に織田信長の子なのか?」と疑問視されるという事情で、庶長子となりました。

一言でいうと、「認知をされていない」ということとなります。

したがって嫡男ではなく庶長子となっています。

 

長男:織田信忠


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織田信忠(おだのぶただ)は織田信長の継承者であり、織田政権2代当主です。

 

実質の長男であり織田信長から絶対的信頼を得ていた愛息子、その理由は織田信忠の立派な人柄にあります。

 

織田信忠は母は側室・生駒吉乃、養母は正室・濃姫です。

織田信長の嫁は正室1人+側室7人だった!

 

着実に成果をあげ、立派な後継者としての道を歩んでいた織田信忠は、父同様本能寺の変により二条新御所で自害しています。

享年26歳でした。

 

側室との間に子を授かりましたが、正室はいませんでした。

その理由は、武田信玄の六女である松姫を想っていたからだと言われています。

 

武田家と織田家の同盟の為、婚約という形で出会い文通や贈り物をしていました。

同盟は成立せず織田信忠と松姫は結ばれることはありませんでした。

 

しかし、本能寺の変が起こる前に、当時武田家が滅び、経済的利点はなかったにも関わらず松姫へ迎えの使者を出しており、純愛が結ばれる直前での自害であったと推測されています。

 

本能寺の変の際、逃げようと思えば逃げられる状態であったにも関わらず、最後まで「織田家の長男・織田信忠」を貫き通しました。

実に男らしく、仕事面でも女性面でも完璧としか言えませんよね。

 

 

次男:織田信雄


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織田信雄(おだのぶかつ)とは母は側室・生駒吉乃であり、養母に正室・濃姫を持ち秀吉・家康の天下になっても織田家が幕末まで続いた理由を持つ」と言われている人物です。

 

織田信雄は後継者に推す家臣がいなかったというほどの低評価でした

「凡庸」と有名な人物なのです

兄の信忠が高評価だっただけになんとも残念な評価であったことがわかります。

 

しかし、凡庸だったからこそ徳川天下でも生き延びることができ、織田家が途絶えなかったといえます。

享年73歳という長寿は凡庸だからこそではないでしょうか。

 

三男:織田信孝

織田信孝(おだのぶたか)とは側室・坂氏を母にもち、本能寺の変の後に豊臣秀吉と共に明智光秀を破ったとされる人物です。

 

本来ならば次男の織田信雄より20日早く生まれたにも関わらず、母である坂氏の身分が低かった関係で届けが遅れ三男になったと言われています。

 

しかし、織田信雄の低評価に比べると織田信孝の方が評価は良かったようです。

 

豊臣秀吉に参戦する形で明智光秀を破ったとされています。

後に豊臣秀吉は当主を織田信忠の息子である「三法師」にすると決めた為、不満を持った織田信孝は豊臣秀吉と対決になり後に報復、豊臣秀吉の命令により自害しており享年25歳となりました。

 

一言で表すならば、「惜しい、あと一歩!」と悔しくなるような人物ですね。

 

四男:羽柴秀勝


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羽柴秀勝(はしばひでかつ)とは織田信長の四男であり側室・養観院を母にもち、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が養子として迎えた人物です。

 

織田信長の死後は丹波を与えられて丹波亀山城主となります。

 

関ヶ原の戦い、小牧・長久手の戦いにも参加しましたが、病気がちになり亀山城で母である養観院に看取られ18歳で亡くなりました。

 

五男:織田勝長

織田勝長(おだかつなが)は織田信長の五男であり、母は不明です。

 

幼い頃、美濃岩村城の遠山氏に養子として出されました。

後に武田信玄の下に移り、7年後織田家へ戻っています。

 

武田攻めに出陣するという形で手柄をあげますが、本能寺の変では兄・織田信忠の側におり、奮戦して討ち死にした人物です。

 

 

六男:織田信秀

織田信秀(おだのぶひで)は織田信長の六男で出生は不明ですが、名前には祖父の織田信秀と同じ名前をもらっている人物です。

 

本能寺の変では美濃の仏照寺で生き延びたとされています。

のちに豊臣秀吉の羽柴姓を与えられました。

 

なお、織田信秀はキリシタンとなり、首にロザリオをつけていたということも伝わっています。

 

亡くなった時期は不明ですが一時は豊臣秀吉に仕え、近江栗田郡に領土を持っていたと記録もあります。

 

七男:織田信高

織田信秀(おだのぶひで)は織田信長の七男であり、母は側室であるお鍋の方です。

 

本能寺の変の後は氏家行広に預けられて養育されています。

 

兄・織田信秀が羽柴姓を与えられた際、その仲介という形で豊臣秀吉に仕え領土を獲得しています。

 

関ヶ原の戦いでは弟・織田信貞と共に出陣したものの、西軍に属したことで領土を失ったとみられています。

享年28歳で亡くなっています。

 

八男:織田信吉

織田信吉(おだのぶよし)は織田信長の八男であり、母に側室・お鍋の方をもつ人物。

 

情報が少なく、関ヶ原の戦いでは西軍につき、戦後は任務替えがあったとされています。

 

享年43歳、京都で亡くなっているという記述があります。

 

九男:織田信貞

織田信貞(おだのぶさだ)は織田信長の九男であり母に側室・土方氏をもつ人物です。

 

織田信長の死後は埴原加賀守に育てられ、豊臣秀吉から近江の領土を与えられました。

 

のちに徳川家康の家臣となり、大阪の陣で徳川軍として戦っています

 

十男:織田信好

織田信好(おだのぶよし)は織田信長の十男で母は不明です。

 

織田信長が亡くなった本能寺の変の時は幼少だった為、豊臣秀吉に引き取られて家臣となった人物と言われています

 

 

十一男:織田信次

織田信次(おだのぶつぐ)は織田信長の十一男であり、母は不明です。

 

関ヶ原の戦いで、兄・織田信吉と出陣して戦死しています。

 

12人の娘まとめ

戦国時代では男性が中心に語り継がれることが多いですが、女性も魅力的な方が揃っています。

やはり、息子達に比べると情報が少ない部分はありますが、こちらでは織田信長の娘について見ていきましょう。

 

徳姫


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徳姫は織田信長の長女であり、母は側室・生駒吉乃です。

 

織田信長と徳川家康の同盟の為、徳川家康の嫡男・松平信康と婚約します。

 

松平信康との間に2女を授かりましたが、夫の松平信康は父・織田信長に叛逆の疑いで死罪を言い渡され切腹しています。

 

本能寺の変で織田信長が亡くなった後は、兄・織田信雄の元で居住したのち実家の生駒氏本領の尾張国に移りました。

 

最終的には京都で余生を過ごしたと言われています。

 

相応院

相応院(そうおういん)は織田信長の次女であり、母は側室・養観院です。

 

蒲生氏郷の正室となりました。

 

蒲生氏郷が亡くなった際に豊臣秀吉は相応院を側室にしようとしましたが、相応院は出家して蒲生氏郷との愛を貫いた人物なのです。

 

 

永姫

永姫は織田信長の三女であり母は不明です。

 

8歳の時に織田信長に認められた前田利家の嫡男・前田利長に嫁ぎます。

 

本能寺の変で織田信長の死去を聞いた夫・前田利長は永姫を尾張国荒子に避難させたという話が残っています。

 

夫・前田利長が亡くなると出家して金沢に移り住んだということです。

 

ひとりの男性に愛を注いだ人物だったのです。

 

報恩院

報恩院(ほうおんいん)とは織田信長の四女であり母は不明です。

 

丹羽長重の正室であり織田家と丹羽家の政略婚姻。

 

報恩院の前にも織田一族と丹羽家は婚姻関係があり報恩院の婚姻で二重の婚姻関係という強い絆をつくりました。

 

本能寺の変の後は豊臣秀吉の介助を受けて坂本城に移り、のちに夫・丹羽長重が徳川家康に仕え江戸に移り最期まで過ごしたそうです。

 

秀子

秀子は織田信長の六女であり、実父は明智光秀だと言われています。

 

織田信長の養女となった後に嫁いでいるとされています。

 

筒井定次の正室で筒井順定を産んだとされています。

 

於振

於振(おふり)は織田信長の七女であり母は側室・お鍋の方である。

 

水野忠胤正室であり後に佐治一成継室となります。

 

水野忠胤との間には一男二女を授かりました。

 

夫・水野忠胤は家臣の刃傷事件により切腹しています。

 

その後、水野家を離れ織田信包の家臣・佐治一成と再婚しました。

 

 

源光院

源光院(げんこういん)は織田信長の八女で母は不明です。

 

豊臣秀吉の介入で万里小路充房の継室となり一男四女を授かったと言われています。

 

三の丸殿

三の丸殿(さんのまるどの)とは母は側室・慈徳院です。

 

豊臣秀吉の側室となり地位的には4番目だったようです。

 

豊臣秀吉の死後は二条昭実の継室となっています。

 

鶴姫

鶴姫(つるひめ)とは織田信長の十女で、母は不明です。

 

中川秀政の正室で二人の間に子供はいませんでした。

 

月明院

月明院(げつみょういん)とは織田信長の十一女で母は不明です。

 

名前しか記述されておらず謎のベールに包まれた人物です。

 

慈眼院

慈眼院(じげんいん)とは織田信長の十二女で母は不明です。

 

織田家と北条家の間で話が進み、北条氏直との婚約者になりました。

しかし、本能寺の変により織田信長が亡くなった後に婚約話はなくなったということです

 

足利夫人

足利夫人(あしかがふじん)は、織田信長の娘とも側室だとも言われていて実情はよくわかっていません。

 

織田信長の死後は豊臣秀吉に守られていたのではないかと言われています。

 

のちに豊臣秀吉の命令で将軍・足利義昭に嫁いでいるようです。

 

 

世間の声


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まとめ

今回は戦国武将・織田信長の子供達24人をご紹介しました。

まとめると下記の通りです。

      • 織田信忠は織田信長の後継者で長男に恥じない働きを行った人物である
      • 織田信雄は凡庸だったからこそ子孫繁栄に貢献し長生きできた。
      • 織田信正という認知されていない実際の長男になるべき人物がいた。
      • 娘たちは織田信長亡き後も様々な人に助けられて生き延びている

 

現代でも織田家を主役としたドラマなどが多くあります。

その理由はやはり織田信長だけではなく、織田信長の子供達の魅力もあるのではないでしょうか。

そして、私たちを惹きつけてくれる織田家のカリスマ性はこれからも続いていくのだと思います。

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